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C62形蒸気機関車 | |
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京都鉄道博物館のC62 2 | |
基本情報 | |
運用者 |
運輸省→ 日本国有鉄道(国鉄) |
製造所 |
日立製作所(1 - 21号機) 川崎車輛(22 - 36号機) 汽車製造(37 - 49号機) |
製造年 | 1948年[1] - 1949年 |
製造数 | 49両[1] |
引退 | 1973年 |
愛称 | シロクニ |
運用範囲 |
東海道本線・山陽本線 常磐線・函館本線 |
主要諸元 | |
軸配置 | 2C2[1] |
軌間 | 1,067 mm(狭軌)[1] |
全長 | 21,475 mm |
全高 | 3,980 mm |
機関車重量 | 88.83 t[1] |
動輪上重量 |
48.23 t(原形)[1] 44.59 t(軽軸重形)[1] |
炭水車重量 | 56.34 t[1] |
総重量 | 145.17 t |
動輪径 | 1,750 mm[1] |
軸重 |
16.08 t (原形 第1・第2動輪上) 14.96 t (軽軸重形 第1・第2動輪上) |
シリンダ数 | 単式2気筒 |
シリンダ (直径×行程) |
520 mm×660 mm(原形)[1] 500 mm×660 mm(軽軸重形)[1] |
弁装置 | ワルシャート式 |
ボイラー圧力 | 16.0 kg/cm2[1] |
ボイラー水容量 | 9.87 m2[1] |
大煙管 (直径×長さ×数) | 140 mm×5,000 mm×35本[1] |
小煙管 (直径×長さ×数) | 57 mm×5,000 mm×94本[1] |
火格子面積 | 3.85 m2[1] |
全伝熱面積 | 244.5 m2[1] |
過熱伝熱面積 | 77.4 m2[1] |
全蒸発伝熱面積 | 167.1 m2[1] |
煙管蒸発伝熱面積 | 147.4 m2 |
火室蒸発伝熱面積 | 17.5 m2 |
燃料 | 石炭 |
燃料搭載量 | 10.0 t[1] |
水タンク容量 | 22.0 t[1] |
制動装置 | 空気、自動空気ブレーキ |
最高運転速度 | 100 km/h[1] |
最大出力 | 2,163 PS |
動輪周出力 | 1,620 PS |
シリンダ引張力 | 13,870 kg |
粘着引張力 | 12,058 kg |
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国鉄C62形蒸気機関車(こくてつC62がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の旅客用テンダー式蒸気機関車である。
1948年(昭和23年)から翌1949年(昭和24年)にかけてD52形蒸気機関車の改造名義で49両が製造され、その牽引力や重量から、輸送量を要求される、主に平坦地や、軟弱地盤の少ない東海道本線、山陽本線など主要幹線の優等列車牽引に使用された。通称シロクニ。
第二次世界大戦当時、国鉄(当時は運輸省)には戦時物資輸送用の貨物用蒸気機関車としてD51形・D52形が大量に在籍していたが、終戦とともに軍事輸送の廃止と工業生産の低下で貨物需要が激減したため、これらの機関車は大半が余剰となった[1]。一方で、生活物資の買出しや戦地・植民地からの復員・引き揚げ輸送の影響で旅客需要が激増し、戦争中に製造が中止されていた旅客用蒸気機関車は極端に不足していた[1]。特に幹線は逼迫(ひっぱく)しており、大型の旅客用蒸気機関車であるC57形・C59形の増備が急がれたが追いつかず、また燃料である石炭の質の悪化による性能低下を補うべく、より大型で強力な重量旅客用機関車を製造する必要に迫られた[1]。しかし占領軍の方針や資材の不足もあり機関車の新製は困難だった[1]。
そこで、GHQ側担当将校デ・グロートの助言に従い、余剰となっていた貨物用機関車のうち一部の車両のボイラーを旅客用機関車に転用することとし、ボイラー以外の部分は既存の旅客用蒸気機関車C57形・C59形の設計を流用して組み合わせた機関車を『改造』名義で製造することになった[1]。財政難で発注がキャンセルされたC57形・C59形(戦後型)のメーカー仕掛部材救済が目的の一つであり、鋳造台枠を削って無理やり収めた2軸従台車の設計や、本形式の49両という中途半端な製造両数もこれに起因している。なお、D52形より転用されたボイラーは、戦時製造のため信頼性が低く、少数の早期廃車機を除いては後に新製ボイラーに換装されている。
占領軍 (GHQ) のインフレ抑制政策(ドッジ・ライン)の指示は、本形式とC61形がほぼ全機ロールアウトする後の1949年(昭和24年)2月のことであり、巷間言われるような関係はない。
これにより、D51形からC61形、D52形からC62形が改造された。C61形は、C57形相当の乙線規格の機関車で、C62形はC59形に代わる特別甲線での特急列車・急行列車の牽引を目的に改造されたものである[1]。
機関車全長は、炭水車を含めて21.48 m。重量は145.2 t。走り装置はC59形を基本とし、動輪直径もC59形と同じで国内最大となる1,750 mm。軸配置は、従来の2C1(先輪2輪 + 動輪3輪 + 従輪1輪の意味)のパシフィック形では軸重が特甲線の上限を超過してしまうため、従輪を2軸とした2C2(先輪2軸 + 動輪3軸 + 従輪2軸の意味)のハドソン形として動軸の軸重を許容上限である16.08 t 以下に収めた。また、この従台車の支点の位置を変え[注釈 1]、先台車の板バネ枚数を16枚から17枚に増やしバネ定数を変更することで動軸の軸重を甲線対応の14.9 t へ引き下げることが可能[注釈 2]で、この軽軸重化は新製時から軽軸重形として製造された8両(19 - 21・45 - 49号機)と[1]、完成後の配置機関区の変更の際に軽軸重化されたものとを合わせて26両に施工された。これら軽軸重型は白河以南の東北本線や、仙台以南の常磐線で使用されたほか、末期には、電化の進展で余剰を来たした通常形を軽軸重形に改造の上で、軽軸重形の需要があった函館本線に転用している。弁装置は国鉄制式機の通例どおりワルシャート式であるが、動力逆転機が標準装備されていた。
軽軸重形は空転防止(出力抑制)のため、シリンダ内にスリーブを挿入してのボアダウンが併せて施されたとの通説があるが、初期に軽軸重型に改造されたものはボアダウンはされておらず、昭和28年発行の鉄道技術発達史にも軸重の変更以外の記述がない。また最初に函館本線に転属した3号機にもこの対策は施されず、軽軸重化工事のみで運用されていた。また、他の転属機についてもボアダウンしたとの改造記録はなく、機関士の使用感が違ったとの記録もない。同じくD52形から改造されたD62形の例と混同され、広まった可能性が指摘される。
本形式の製造は、治具や生産ライン、それに在庫の仕掛り部材の関係で、C59形の製造に携わった日立製作所笠戸工場(21両:1 - 21号機)、川崎車輌兵庫工場(15両:22 - 36号機)の2社が当初指定され、これに続いて車両需給の関係でC61形の発注をキャンセルされた汽車製造大阪製作所(13両:37 - 49号機)がそれに対する救済措置の意味合いを含め、追加で指定された。この経緯から、本形式の設計は試作機としての役割を持つ1 - 4号機を担当した日立製作所の意見が強く反映されており、日立製量産機と川崎車輌製はこれに準じて製造された。これに対し、汽車製造が担当した37号機以降は、基本的には36号機以前と共通設計ながら、前後で同一形状の蒸気溜りと砂箱のキセや、弁装置の調整など、C59形の設計に参加した高田隆雄ら同社技術陣の美意識によって、日立・川崎製とは異なる個性の強い外観とされた。
ボイラーはD52形からの転用であるため缶胴寸法は同一で、煙管長は5,000 mm、燃焼室付きである。
炭水車は当初C59形の戦後形に用いられたものと同一の、全溶接構造の船底形車体に、石炭10 t および水22 t を搭載可能とする10-22形が連結されていた。2 - 4号機で旧満鉄向け機材の転用による自動給炭機(メカニカルストーカー、動力部は炭水車に装備)装備試験を行った結果、好成績が得られたため、国鉄・汽車製造・ダイハツ工業の共同による動力部を機関車取付けとしたものが開発された事から5号機以降でこれが制式化され、炭水車も10-22S形(Sはストーカーを意味する)に変更された。ただし、初期製造分は自動給炭機の完成が遅れ、非搭載のまま就役している。
本形式は大直径動輪の上、破格の大型ボイラーを搭載したため、車両限界への抵触が心配された。そこで、煙突は太く短めのものとし、蒸気溜りと砂箱を覆うキセも幅広で扁平なものとなった。このため加減弁の開閉装置は通常のリンク式が使用出来ず歯車式とした[注釈 3]が、開閉が重く振動音が大きいなど問題があり、後に改良型のリンク式として解決を図った。また、汽笛も限界内に収まるよう、後方に傾斜して取り付けられている[1]。
ストーカー使用前提で定められた燃焼率600kg/m2時の最大出力は1,620PSで、これは母体となったD52形の1,660PSに次いで日本国内では歴代第2位である。また、動輪周馬力で比較すると、本形式はC59形に比して1.2倍以上という圧倒的な高出力を実現している。実際に新造開始直後山陽本線糸崎 - 八本松間で実施された、ボイラに燃焼室を持たない長煙管の戦前型C59形との性能比較試験では、同一条件下で石炭消費量が20パーセント以上節約されるという好成績を収めている。これはC59形よりもC62形のほうが定格に対して低負荷となり缶効率が良いためである。
形式 | 改造後 | 改造前 | 製造所 | 製造番号 | 落成日 | 除籍日 |
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C62形 | C62 01 | D52 074 | 日立製作所 | 1921 | 1948年01月17日 | 1967年07月14日 |
C62 02 | D52 455 | 1930 | 1948年05月20日 | 1979年03月28日 | ||
C62 03 | D52 458 | 1931 | 1948年06月18日 | 1976年03月19日 | ||
C62 04 | D52 399 | 1932 | 1948年06月30日 | 1960年01月27日 | ||
C62 05 | D52 349 | 1933 | 1948年07月20日 | 1968年02月15日 | ||
C62 06 | D52 461 | 1934 | 1948年07月31日 | 1966年10月17日 | ||
C62 07 | D52 464 | 1955 | 1948年08月25日 | 1966年01月20日 | ||
C62 08 | D52 446 | 1956 | 1948年08月29日 | 1964年03月30日 | ||
C62 09 | D52 121 | 1957 | 1948年09月06日 | 1966年01月20日 | ||
C62 10 | D52 119 | 1958 | 1948年09月23日 | 1967年11月24日 | ||
C62 11 | D52 150 | 1959 | 1948年10月06日 | 1966年01月20日 | ||
C62 12 | D52 445 | 1796 | 1948年10月23日 | 1967年09月20日 | ||
C62 13 | D52 447 | 1797 | 1948年11月20日 | 1966年10月17日 | ||
C62 14 | D52 145 | 1798 | 1948年11月30日 | 1967年12月14日 | ||
C62 15 | D52 112 | 1799 | 1948年12月15日 | 1971年11月24日 | ||
C62 16 | D52 127 | 1800 | 1948年12月22日 | 1971年11月24日 | ||
C62 17 | D52 069 | 1801 | 1948年12月30日 | 1971年03月08日 | ||
C62 18 | D52 375 | 1802 | 1949年01月26日 | 1968年05月02日 | ||
C62 19 | D52 407 | 1803 | 1949年03月06日 | 1964年11月14日 | ||
C62 20 | D52 025 | 1804 | 1949年03月14日 | 1964年11月14日 | ||
C62 21 | D52 077 | 1805 | 1949年03月20日 | 1962年02月02日 | ||
C62 22 | D52 022 | 川崎車輛 | 3155 | 1948年08月20日 | 1967年11月24日 | |
C62 23 | D52 023 | 3156 | 1948年08月31日 | 1970年11月28日 | ||
C62 24[注釈 4] | D52 106 D52 233 |
3157 | 1948年09月24日 | 1967年11月24日 | ||
C62 25 | D52 226 | 3158 | 1948年09月30日 | 1968年05月23日 | ||
C62 26 | D52 046 | 3159 | 1948年10月08日 | 1966年09月08日 | ||
C62 27 | D52 049 | 3160 | 1948年10月16日 | 1968年02月20日 | ||
C62 28 | D52 151 | 3161 | 1948年10月21日 | 1966年10月17日 | ||
C62 29 | D52 085 | 3162 | 1948年10月28日 | 1967年07月15日 | ||
C62 30 | D52 152 | 3163 | 1948年11月11日 | 1968年10月18日 | ||
C62 31 | D52 227 | 3164 | 1948年11月18日 | 1967年10月21日 | ||
C62 32 | D52 147 | 3165 | 1948年11月24日 | 1971年06月26日 | ||
C62 33 | D52 082 | 3166 | 1948年11月30日 | 1967年10月21日 | ||
C62 34 | D52 230 | 3167 | 1948年12月18日 | 1968年02月15日 | ||
C62 35 | D52 093 | 3168 | 1948年12月26日 | 1965年10月22日 | ||
C62 36 | D52 231 | 3169 | 1948年11月12日 | 1966年12月01日 | ||
C62 37 | D52 358 | 汽車製造 | 2450 | 1948年09月18日 | 1970年11月28日 | |
C62 38 | D52 374 | 2564 | 1948年09月29日 | 1967年11月24日 | ||
C62 39 | D52 141 | 2565 | 1948年10月06日 | 1967年11月24日 | ||
C62 40 | D52 367 | 2566 | 1948年10月15日 | 1967年05月25日 | ||
C62 41 | D52 352 | 2567 | 1948年10月23日 | 1970年03月14日 | ||
C62 42 | D52 357 | 2568 | 1948年11月12日 | 1964年03月30日 | ||
C62 43 | D52 345 | 2569 | 1948年11月30日 | 1967年10月21日 | ||
C62 44 | D52 356 | 2570 | 1948年12月26日 | 1971年06月26日 | ||
C62 45 | D52 353 | 2571 | 1949年03月08日 | 1967年11月24日 | ||
C62 46 | D52 026 | 2572 | 1948年03月21日 | 1969年09月24日 | ||
C62 47 | D52 366 | 2573 | 1948年03月31日 | 1969年03月31日 | ||
C62 48 | D52 380 | 2574 | 1949年04月08日 | 1969年09月24日 | ||
C62 49 | D52 104 | 2575 | 1949年04月20日 | 1968年06月13日 |
1948年(昭和23年)から1949年(昭和24年)の間に完成したC62形49両は、当初、そのほとんどが各メーカーに近い機関区に新製配置された。これは落成直後は自動給炭機の完成の遅れから未装備の機体が多かった[2]ことに加え、納品後の不具合洗い出しや運用に当たる乗務員・各機関区の保守陣の習熟が目的と見られる。
具体的には、日立製の21両は浜松機関区に配置された6号機と後期製造の軽軸重形3両(19 - 21号機、宇都宮機関区)を除く全17両が岡山以西の各機関区に、川崎車輛兵庫工場製の15両はやはり浜松に配置された28号機以外の全14両が下関から梅小路までの東海道・山陽本線の各機関区に、そして汽車製造大阪製作所製の13両は後期製造の軽軸重形5両(45 - 49号機、尾久機関区)以外の8両は岡山、宮原、梅小路の3機関区にそれぞれ分散配置されている。
原形の41両は静岡(1両:5号機)[2]、浜松(2両:6・28号機)[2]、梅小路(6両:31・32・34・40・43・44号機)[2]、宮原(4両:35・36・41・42号機)[2]、姫路第二(3両:29・30・33号機)[2]、岡山(6両:17・24・25・37・38・39号機)[2]、糸崎(7両:2・3・4・8・12・15・22号機)[2]、広島第二(5両:1・7・9・14・26号機)[2]、下関(7両:10・11・13・16・18・23・27号機)[2]の各機関区に分散配置され、東海道本線・山陽本線にて既存のC59形と共通運用で運転が開始された[1]。当初は敗戦直後の困窮がまだ続いていたこともあり、長大編成の急行・普通列車の牽引に充当された[1]。なお、東北本線・常磐線の輸送力強化のため、1949年(昭和24年)6月までに初期製造のうちの11両(7 - 11・22 - 24・37 - 39号機[注釈 5])が軽軸重形に改造のうえ尾久、宇都宮、白河、水戸の各機関区に転出している[1][2]。
1950年(昭和25年)10月1日ダイヤ改正で、東京 - 大阪間の特急「つばめ」・「はと」を従来より1時間短縮した8時間で運転することとなり、運転曲線と牽引する客車の換算両数が再検討され、C59形では性能的に限界に近いと判断された。このため、当時東海道本線・山陽本線で運用されていたC62形各車は浜松、名古屋、梅小路、宮原の4区に集中配属となり、中でも特に調子の良いものが宮原、浜松の両機関区に集められ、これらを整備の上、当時非電化の浜松 - 京都間から戦前に電化されていた大阪駅までの牽引に充てることとなった。宮原機関区では配属車両の中でも29・35号機をはじめとする好調機[2]、普通機、2号機などの不調機と、識別のためにそれぞれナンバープレートの色を変更した上で3グループに分けられ、トップグループから優先的に急客牽引に充当された。
本形式はこの特急運用においてその性能を発揮し列車運転時分の短縮に貢献したが、特に宮原機関区では、機構上の制約から、スクリュー状の送りねじを回転させて給炭するため、途中で石炭が粉砕されやすく投炭時に石炭くずが発生しやすい自動給炭機の使用を制限し、人力投炭を行うことによって、乗客に不快感を与えるシンダ(煙突から排出される石炭の燃えカス)の発生を抑止するという、本形式の大きな火格子面積や、関ヶ原越えを含む厳しい線路条件による燃料要求量を勘案すると過酷な投炭方法を実施していたと伝えられている。
東海道本線の電化区間が名古屋、稲沢、米原と西に伸びるに従って、本形式をはじめとする本線用蒸気機関車の運用区間は縮小されていったが、1956年(昭和31年)11月19日ダイヤ改正における東海道本線全線電化完成により、全区間でその座をEF58形電気機関車に譲るまでは非電化区間で特急「つばめ」・「はと」の牽引機を務め、1954年以降は名古屋機関区と宮原機関区所属車の一部に重油併燃装置を取り付けて特急「つばめ」・「はと」の牽引定数をそれまでの500 t から550 t に引き上げた[3]。
東海道本線で運用されていた本形式は、電化の進行に伴い7両(2・3・27・30・32・42・44号機)が軽軸重形に改造のうえ後述する北海道へ転出したが[1]、多くは梅小路、広島第二、さらに下関などの機関区へと転属し[4]、C59形とともに山陽本線を主な運用区間として京都 - 博多間の特急「かもめ」や寝台特急「あさかぜ」・「さちかぜ」・「はやぶさ」・「みずほ」、急行「きりしま」・「筑紫」・「雲仙」・「阿蘇」などの、当時を代表する優等列車の牽引に充当された[1]。だが、1958年(昭和33年)8月14日に岩国市付近の踏切にて、上り特急「かもめ」を牽引していた4号機と進駐軍のトレーラートラックが衝突する事故が発生し、同機は1960年(昭和35年)1月27日付でC62形最初の廃車機となっている[2]。
1956年(昭和31年)11月19日ダイヤ改正の寝台特急「あさかぜ」新設後も山陽本線を通る優等列車は増強され、1958年(昭和33年)10月1日ダイヤ改正に「あさかぜ」用として登場し、以後1959年(昭和34年)7月20日ダイヤ改正での寝台特急「さくら」運転開始などで増備が続けられた20系客車も姫路 - 下関間では本形式が牽引した。しかし、特急「かもめ」が1961年(昭和36年)にキハ82系の導入で気動車化され、寝台特急や急行列車の牽引区間も幹線電化の進展によって姫路駅、岡山駅、ついで広島駅以西と次第に狭められていき、1964年(昭和39年)10月1日には山陽本線の全線電化完成に伴い定期特急運用が一旦消滅[1]、下関機関区配置車は全車が電化完成前日の9月30日に広島機関区(旧広島第一機関区)・広島運転所(旧広島第二機関区)へと転属[注釈 6]した[5]。広島機関区・広島運転所の配置車は急行「音戸」の広島 - 下関間など電化から漏れた山陽本線西部・岩徳線の一部列車に充当され[6]、1965年からは山陽本線の補助線として特別甲線規格で整備されていた呉線を受け持つため蒸気機関車の配置区として残されていた糸崎機関区に広島機関区・広島運転所から本形式が順次転属、呉線経由で運転されていた急行「安芸」などを糸崎 - 広島間で牽引する運用へC59形とともに充当され続けた[7][1]。もっとも、これらの運用に充てられた本形式も急行「音戸」の広島 - 下関間牽引は1966年(昭和41年)9月で電気機関車に置き換えられ[8]、1967年(昭和42年)には広島運転所の配置車が全廃となるなど次第に数を減らし、呉線直通列車以外の山陽本線運用は糸崎機関区からの機関車回送を兼ねて残された糸崎 - 広島間の下り普通列車1本と一部の臨時列車を除き1968年(昭和43年)10月1日ダイヤ改正までに消滅した[9]。
呉線の運用では、1967年(昭和42年)10月1日の常磐線全線電化(後述)で余剰となった軽軸重形5両(23・37・46 - 48号機)が同年末に平機関区から糸崎機関区に転属[1]、重軸重型への改造は行われないまま使われていたが、編成重量が呉線内の単機牽引定数一杯となる12両編成、460 t であった急行「音戸」を牽引した際には16‰前後の勾配区間が連続する安登駅周辺で空転が頻発したため、1969年1月から編成重量の比較的軽い[注釈 7]「安芸」は重軸重・軽軸重型問わず本形式の牽引が基本となる一方、「音戸」などの重量列車牽引はより軸重の重いC59形限定運用と分離され[10]、同年中には軽軸重形3両(46 - 48号機)が検査期限の都合もあり廃車となった。さらに1970年(昭和45年)3月には41号機が検査期限切れで廃車となり[2]、糸崎機関区では本形式に運用の余裕がなくなったことから一部の旅客列車運用をD51形が代走することもあった[11]。呉線の電化工事は1970年(昭和45年)8月に完成、同月下旬からは蒸気機関車牽引列車に電気機関車を連結して訓練を行う電蒸運転、9月中旬からは上り「安芸」などで電機単独運転も行われるようになり、山陽本線・呉線での運用は1970年(昭和45年)9月30日[注釈 8]が最後となった[12]。最後まで運用された5両のうち2両(15・16号機)は小樽築港機関区へ転属[1]、17号機は稲沢第一機関区を経て名古屋市内へ保存の手配がとられたが、常磐線電化による転属車で最後まで残った2両(23・37号機)は廃車となり、糸崎機関区からは本形式の配置がなくなった。これをもって、本形式1号機の新製配置以来22年に渡った、東海道・山陽本線系統での運用に終止符が打たれた[1]。
まず、1949年(昭和24年)3 - 4月に落成した軽軸重形の8両が尾久(5両:45 - 49号機)、宇都宮(3両:19 - 21号機)の各機関区に分散配置された。さらに、山陽本線沿線の機関区に新製配置された初期製造車のうち、11両が軽軸重形に改造のうえ、同年6月までに尾久(2両:38・39号機)、宇都宮(1両:8号機)、白河(3両:9 - 11号機)、水戸(5両:7・22 - 24・37号機)の各機関区に転属し[1][2]、東京以北区間でのC62形運用はこれら19両で開始された[1][2]。
新製から数年間は東北本線の白河以南[注釈 9]と常磐線において運用されていたが、東海道本線の電化が進んだことから、1955年(昭和30年)以降にC59形が仙台以南の東北本線用として転属してきた。このため、本形式は1954年(昭和29年)9 - 11月にかけて尾久・平の両機関区に転配され、常磐線を中心に運用されることとなった。なお、1960年代の初めごろまでは、朝・夕の通勤・通学時間帯に運転される東京駅乗り入れの常磐線の普通列車(正確には、東京側の始発・終着駅は新橋駅)を牽引していたこともある。
1958年(昭和33年)10月1日ダイヤ改正からは新設された特急「はつかり」の上野 - 仙台間(常磐線経由)の牽引機に抜擢され[1]、この際に尾久機関区では7・8・10・11・20・22・37の逆転機を動力逆転機から手動のねじ式逆転機へと改造した。動力逆転機のまま残った9・23・38・39と平機関区配置車も整備上の問題から逆転機駆動部のカバーを外している。特急「はつかり」は、運転開始からわずか2年後の1960年(昭和35年)12月10日に新開発のキハ80系気動車へ置き換えられ、一時は本形式による特急仕業が消滅したが、その後も常磐線内では尾久・平の両機関区に引き続き本形式が配置され、「みちのく」・「十和田」といった客車急行牽引の主力機として重用された。
もっとも、1963年(昭和38年)に常磐線の平駅(現在のいわき駅)以南の交流電化工事が完成し、尾久機関区配置の本形式による運用はEF80形電気機関車によって置き換えられた[1]。このため、常磐線系統における本形式の運用は、以後、平 - 仙台間のみとなった。電化の進展により余剰となった尾久機関区配置の一部(7・8・9・11・19・20)は水戸機関区を経て仙台機関区に転属し、一時は東北本線の仙台 - 青森間の旅客列車を牽引することも検討され、同じ目的で42も小樽築港機関区から転属した。だが、保線側から本形式の入線による軌道への悪影響が懸念されたことや、既にDD51形ディーゼル機関車の量産が始まっていたこともあり、実現には至らなかった。そのため、仙台機関区に配置された本形式は仙台近郊や常磐線で一部の列車を牽引する以外に目立った運用もないまま、1965年度中に全車廃車となっている。なお、軽軸重仕様のC62形の動軸重は同区間で運用されていたC60形・D62形とほぼ同一だった。
その後、1965年の東北本線盛岡駅電化の際に急行「北斗」の格上げで新設された20系による寝台特急「ゆうづる」(5・6列車)は所要時分短縮のために平坦な常磐線経由で運転されることとなり、非電化のままの平 - 仙台間については平機関区配置の本形式がその牽引機に抜擢されることとなった[1]。以後、本形式の全廃までの間に本形式が配置された各線区で寝台特急が新規設定される事例はなかったため、この「ゆうづる」は本形式が牽引する最後の定期特急列車となった。
なお、この「ゆうづる」には黒岩保美デザインのヘッドマークが掲げられていた。「夕日をバックに飛翔する鶴」を描いたこのマークは、同列車が最後の蒸気機関車牽引特急となることを念頭に置いて、本形式に装着した際に最も映えるように配慮してデザインしたことを、後年になって黒岩本人が証言している。彼は、計画段階で列車重量と経由路線からこの新設寝台特急がC62形牽引となることを推定し、しめたと思ったと述懐している。
新設時の「ゆうづる」は当時最新かつ軽量構造の20系客車を用い、現車13両、換算41両、つまり総重量410 t と比較的軽量の編成となっており、新製時の性能査定に基づいたダイヤ編成では特に問題なく運用可能のはずだった。だが、運転開始時点でC62形は既に車齢16年以上が経過し、しかも平機関区へ配置されていた12両はいずれもコンディションが決して良好とは言い難かった。そのため、比較的平坦な常磐線とは言え、平から仙台までの150 km を無停車のまま2時間15分(上り:表定速度約67 km/h)で走破する、新製直後のグッドコンディションを前提とした性能査定に基づく厳しいダイヤ設定から、この「ゆうづる」は定時運行維持が困難と予想され、運転開始前の1965年9月に品川客車区配置の20系予備車を連ねた15両編成[注釈 10]を用い、田端操車場と青森駅の間で本運用に準じたダイヤでの試運転が実施された。この試運転の結果、発熱量約6,500kcal/hで、夕張・常磐・筑豊など各産地の異なるグレードの石炭を各機関区でブレンドした通常使用の石炭では火力不足から所定のダイヤでの運転が困難で、しかも仙台到達時点で石炭も水もほとんど使い果たすという非常に厳しい状況であることが判明した。このため営業運転の際には特にこの「ゆうづる」の運用(SL甲組 仕業番号1)に限り、北海道夕張産の、高カロリーかつ排煙の少ない良質粉炭とピッチを混合・成形したもので、乗務員からは特級(急)豆炭と呼ばれた発熱量8,000kcal/hの甲種練炭限定搭載として機関車性能の底上げが行われ、また、ダイヤ上もあらかじめ設定されていた3パーセントの余裕時分を最大限に活用することで、かろうじて定時運行の維持が図られた。
こうして老朽化した本形式を用いて限界ぎりぎりの運用を実施した「ゆうづる」も、運転開始から2年後の1967年(昭和42年)10月1日には同区間の電化完成でED75形電気機関車の牽引に切り替えられた。電化工事そのものの完成は同年7月30日であり、客車急行や一部普通列車は、順次ED75形の牽引となり、特急「ゆうづる」も下り5列車が8月20日よりED75形の牽引に切り替えられ、上り6列車牽引の本形式は203列車で平から仙台へ送り込むように変更された。だが、9月中旬に線内で起こった土砂崩れの影響で、電化に伴う新線切り替え区間が不通となったため、やむなく非電化の在来線に戻して列車運行を実施、この関係で「ゆうづる」は復旧作業中の約1週間にわたって全列車が本形式での牽引となった。その後、下り5列車はED75形牽引に戻ったが、ダイヤ改正前の9月30日まで上り6列車は本形式による牽引が維持された。
その後、平機関区に最後まで在籍した本形式12両は、状態が比較的良好な5両(23・37・46 - 48号機)が呉線を担当する糸崎機関区へ転属[1]、不調気味の6両(10・22・24・38・39・45号機)が1967年(昭和42年)11月24日に除籍、解体となった[2]。保存が検討された本形式ラストナンバーの49号機は、一時保留とされ平機関区に保管されたが、結局、引き取り手が見つからず、1968年(昭和43年)6月13日に除籍、解体処分に付されている[2]。
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この節の正確性に疑問が呈されています。問題箇所に信頼できる情報源を示して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2016年2月) 疑問点:1960年代の小樽所属機(特に2号機)の状態の好・不調機の正確性について |
東海道・山陽本線の電化が進展しつつあった1950年代後半、北海道の函館本線で運行されていた対本州連絡急行は、特に急勾配と急曲線が連続する長万部 - 小樽間(通称:山線)でのD51形重連運用と、函館 - 長万部間(通称:海線)での高速運転により乗務・検修の双方に多大な負担を強いていた。前者の形式はストーカー非装備だったことから機関助士2人による人力投炭を強いられた。後者は振動と各回転部の異常磨耗で検修陣に負担がかかっていた[1]。
そこでそれらの諸問題の解決策として、所要両数に余裕が生じ、不調機から保留車が出始めたC62形を、軽軸重形に改造の上で転用投入する案が持ち上がり、まず1956年(昭和31年)9月15日に3号機が梅小路から発送され[2]、苗穂工場に入場、軸重軽減改造の上で試験運行が実施された[1]。その結果は良好で、破格の大形機故に危惧されていた軌道負担増大の問題についても、保線側で充分対応可能な範囲に収まったことから、翌1957年(昭和32年)の初頭に好調機は山陽本線を担当する各区へ配置し、その選に漏れた不調気味の保留車・余剰車から函館本線へ転用する方針が決定[注釈 11]。こうして6両が選出され、D52形から流用されていた戦時設計による粗製濫造ボイラーの新製交換と、軸重軽減改造とを施工した後、小樽築港機関区へ転属の手続きがとられた[1][2][注釈 12]。
まず、1957年(昭和32年)2月に4両(2・27・30・32号機)が3号機とともに急行「大雪」の牽引(函館 - 小樽間)に充当された[1]。続いて3月に梅小路から44号機、10月に宮原から42号機が加わり、計7両が「大雪」・「まりも」・「アカシヤ」などの急行列車牽引に使用された[1][2]。
最も過酷な使用条件の山線区間の急行運用はD51形重連からC62形重連、または前部補機D51形と本務機C62形による重連に変更された。この運用では、除煙板に「つばめマーク」が取り付けられた2号機が重連の先頭に立つことが多かった。これはファンサービスが目的ではなく、前補機は長万部駅でその日のうちに折り返して検修陣の待つ小樽築港機関区に帰着できるためである。つまり、翌日まで基本的に検修がノータッチとなり、しかも海線での高速走行を行う本務機と比較して、運用による負担が軽いため、後述のとおり東海道時代から不調気味で乗務員から信頼の薄い2号機を前補機として限定運用することは、検修側・運用側の両者にとって望ましかったとされる[要出典][注釈 13]。一方で32号機と44号機は好調機と評価され、優先的に本務機の運用に充当されたことが知られている。急行「大雪」のC62形牽引時代末期には、通常期に客車が減車されたため、多客期以外の同列車では基本的に単機牽引となっている。
また、函館本線の七飯 - 大沼(旧:軍川)間については、1966年(昭和41年)10月1日に下り線の上り勾配緩和のために建設された、通称:「藤城線」と呼ばれる下り線専用の新線が開通する前は、上下列車とも、渡島大野駅(現在の新函館北斗駅)・仁山駅(旧:仁山信号場)を通る、仁山越えの従来線[注釈 14]経由で運転されていたが、下りの旅客列車のうち、優等列車をはじめとする編成の長い旅客列車については、本務機はC62形、後部補機はD52形、またはD51形という形で運転されていた。ただし、C62形牽引時代末期の急行「大雪」については、通常期には、前述のとおり減車されていたため、下り列車の仁山越えの区間でも、補機の連結なしの本形式による単機牽引だった。
しかし、1961年(昭和36年)10月1日ダイヤ改正(サンロクトオ)で急行「アカシヤ」が廃止されると、以後は客車急行の気動車化が進んでいく。さらに同ダイヤ改正で北海道初の特急「おおぞら」が新設されたことを契機に、函館 - 札幌間のメインルートが函館本線(小樽駅)経由から室蘭本線・千歳線経由に移行していく[1]。この時期には、間合い運用として函館 - 札幌間の夜行準急・急行「たるまえ」→夜行急行「すずらん」(いずれも室蘭本線・千歳線経由)の函館 - 長万部間や、函館 - 網走間(函館本線・石北本線経由)の夜行準急・急行「石北」[注釈 15]の小樽 - 旭川間の牽引も担当するとともに、優等列車ばかりでなく、函館本線の普通列車の一部も牽引した[1]。
1962年(昭和37年)10月1日ダイヤ改正では急行「大雪」が全区間C62形単機での牽引に変更され[1]、1963年(昭和38年)4月28日付で42号機が仙台機関区に転出する[2]。同年6月1日には急行「大雪」が気動車急行「ライラック」(キハ56系気動車)に変更され、C62形の急行列車牽引は「まりも」の函館 - 小樽間と「たるまえ」の函館 - 長万部間のみとなり、山線での重連運転は急行「まりも」1往復のみに減少した[1]。1965年(昭和40年)10月1日ダイヤ改正では急行「まりも」が札幌駅を境に急行「ていね」(函館 - 小樽 - 札幌間)と「まりも」(札幌 - 釧路間)に系統分離された[1]。
1967年(昭和42年)10月1日ダイヤ改正での運用減に伴い[1]、1968年(昭和43年)2月20日付で27号機が除籍・解体された[2]。さらに1968年(昭和43年)8月28日には小樽 - 滝川間が電化され、C62形の運用は再び小樽以南に縮小された[1]。同年10月1日ダイヤ改正(ヨンサントオ)では急行「ていね」が「ニセコ」に改称。この下り「ニセコ3号」、上り「ニセコ1号」の1往復(函館 - 小樽間)がC62形で最後の急行列車牽引となった[1]。同年10月18日付で30号機が廃車となり[2]、小樽築港機関区のC62形は4両(2・3・32・44号機)に減少した[1]。
1970年(昭和45年)には、好調故に本務機に多用され、走行キロ数が伸びていた32号機と44号機がDD51形ディーゼル機関車への置き換え計画実施まで1年を残して全検周期に到達、検査を実施するよりも期限未到達の余剰車を軽軸重形へ改造および耐寒設備工事施工のうえで転用する方が大幅に安価[注釈 16]であった。このため、当該2両はいずれも1971年(昭和46年)6月26日付で廃車となり[2]、代替機として呉線電化で余剰となり、検査期限まで1年以上期間が残っていた2両(15・16号機)が糸崎機関区から転属した[1]。なお、両機の軸重軽減改造時には交換が必要な従台車は32・44号機からの廃車発生品を流用し、さらに16号機のテンダーについては32号機のものと交換した[2]。
そして1971年(昭和46年)、最後まで重連運転として残った急行「ニセコ」1往復(下り3号、上り1号)が7月18日・8月22日・9月15日の3回に分けて実施された三重連運転を最後にDD51形ディーゼル機関車に置き換えられ[注釈 17]、ついに終焉を迎えた[1]。最終日となった9月15日の牽引機は先頭から2・3・16号機であった[1]。これに伴い、国鉄から蒸気機関車牽引の定期急行列車が消滅した。
急行「ニセコ」運用から退いた後、15・16号機が同年11月24日付で廃車・解体された[2]。2号機は長万部 - 小樽間の普通列車運用に充当された後[1]、翌1972年(昭和47年)10月10日付で梅小路機関区に転属し、同機関区に併設された梅小路蒸気機関車館にて動態保存されることとなった[注釈 18][1][2]。3号機は一時休車を経て、1973年(昭和48年)2月から函館本線の長万部 - 小樽間の臨時普通列車を牽引したが[1]、長万部 - 小樽間の完全無煙化により同年10月1日付で第一種休車となり、1976年(昭和51年)3月19日付で正式に除籍された[2]。3号機は、小樽市の北海道鉄道記念館にて静態保存された[1]。
以上のように本形式は優等列車を中心に第一線で華々しく運用されたが、お召し列車を牽引したことは一度もないまま終わっている。特に東海道本線・山陽本線系統では、現場の信頼も極めて高かったC59形がその任務にあたった。そのため、お召し列車牽引機としての特別整備を実施された実績は存在しない。ただし、特急「つばめ」がお召し列車の先導列車となった際に、その牽引機がお召し列車牽引機に準じた特別整備を施されたケース(25・30号機)は存在している。
乗務員の間では、太いボイラーが運転台一杯に迫っていることに伴う狭さや、夏季の温度上昇など、運転台内部に余裕のあったC53形やC59形と比較すると、作業環境としては必ずしも良いとはいえない評価がなされている一方、本形式で採用された2軸従台車による高速安定性と振動の少なさ、自動給炭機による焚火労力の低減、D52形譲りの大形ボイラーと燃焼室がもたらした圧倒的な高出力による運転上の余裕など労働環境は好評価されている。
また、D52形のボイラーを使用したことで、高速でも動揺が少なく操作性が良かった[13]。元国鉄職員で漫画家のおのつよしによると、重心が高くなって安定が悪いのではと心配する意見もあったが、試運転をしてみると不安を一蹴する好成績だった、という[14]。
現存5両のうち3両が2016年4月に開館した京都鉄道博物館に所在する。うち、同館の2号機は動態保存で車籍も有すが、法定検査を受けていないため、本線での運転は不可能である。
トップナンバーである1号機は、1948年(昭和23年)1月17日に日立製作所笠戸工場で落成[2]。同年1月23日付で広島第二機関区に新製配置された後、1950年(昭和25年)8月23日に宮原機関区に転属し、東海道本線で特急「つばめ」・「はと」などを牽引した[2]。1957年(昭和32年)7月10日に再び広島第二機関区に転属されると、特急「かもめ」や寝台特急「あさかぜ」・「さくら」などを中心に牽引し[2]下関電化後も岩徳線直通など山陽本線列車の一部に充当されたが[2]、1966年(昭和41年)9月30日に急行「音戸」を牽引して広島 - 下関間を往復したのが最後の運用となり、同年10月1日付で第一種休車となった[15][16]。1967年(昭和42年)4月1日に広島機関区へ移り、同年6月1日に第二種休車を経て、同年7月14日付で除籍となった(中国支達1460号)[2]。
除籍後は解体が予定されたが国鉄本社からその処分を保留する指示が出され[17]、保存を見越して広島機関区、次いで小郡機関区において長らく保管され続け、1976年(昭和51年)3月に広島鉄道学園(国鉄職員の研修施設)敷地内で静態保存されるとともに、同年3月31日付で準鉄道記念物に指定された[18]。しかし、国鉄改革の際に同学園が閉鎖され、しばらく同敷地内に放置されていたが、1994年(平成6年)に梅小路蒸気機関車館に移されており、標準では引掛け式となる標識灯を端梁に埋め込むなど、山陽本線で運用されていた本形式独特の改造を施された姿を今に伝えている。
2013年(平成25年)7月20日にはイベント「銀河鉄道999とC62形蒸気機関車」にて、漫画「銀河鉄道999」の999号と同形式であるC62形1号機のデフレクタに「999」のエンブレムとヘッドマークの取り付け、同年9月1日まで蒸気機関車館扇形車庫11番線に展示された。梅小路蒸気機関車館を拡張・改称した京都鉄道博物館で引き続き保存展示されている。
1948年(昭和23年)5月20日に日立製作所笠戸工場で落成[2]。3・4号機とともに自動給炭機の試用機として製造され、同年6月14日付で糸崎機関区に新製配置された[2]。1950年(昭和25年)8月12日に宮原機関区へ転属。翌1951年(昭和26年)に鷹取工場へ入場した際に、当時行われていた模範整備運動と宮原機関区からの要望で、除煙板にステンレス製の「つばめマーク」が取り付けられた[2]ことから、「スワローエンゼル」の愛称で親しまれる。
東海道本線の全線電化によって余剰となり、1956年(昭和31年)11月25日から1957年(昭和32年)1月8日まで保留車として吹田機関区へ留置された後[2]、同年1月21日に北海道へ渡る[2]。苗穂工場で軽軸重形への改造工事が施工されて1957年(昭和32年)2月7日付で小樽築港機関区へ転属[2]。函館 - 小樽間の急行列車牽引などに充当され[2]、重連運転では専ら前部補助機関車の運用に優先的に使用された。
1972年(昭和47年)10月10日に、鉄道100年を記念して設立された梅小路蒸気機関車館に動態保存され、それ以降国鉄→西日本旅客鉄道(JR西日本)梅小路運転区に車籍を有している。蒸気機関車館の開館当初、1972年(昭和47年)10月14日・10月22日・11月5日・11月19日、1973年(昭和48年)3月11日・4月22日には京都 - 姫路間で臨時列車「SL白鷺号」を牽引している。しかし同機は、蒸気機関車館保存後の1974年(昭和49年)8月から9月にかけ国鉄長野工場で全般検査が実施された後、「SL白鷺号」などの本線自力走行や、本線走行に必要な検査は今日に至るまで一度も実施されていない。このため法令上、構内展示走行のみ可能な状態である。梅小路蒸気機関車館においては他の動態保存機とともに「SLスチーム号」としての保存運転に使用されていた。現役時代には、宮原時代と小樽築港時代の二度にわたり重油併燃装置が搭載されたが[2]、動態保存への移行にあたって撤去された。
なお、梅小路蒸気機関車館建設時の保存車両選定で、同一形式が複数残存した場合は、原則的には最若番機あるいは最終号機を最有力候補としていた。C62形は当時1号機が存在したため当初は候補に挙げられていたが、2号機の人気には逆らえず、変更となった模様である[18]。
1997年(平成9年)9月11日午前10時、京都駅の新駅ビル落成式典にあたって、駅構内においてグランドオープンを告げる汽笛を鳴り響かせた。式典後梅小路へはEF65形の牽引により回送されたが、その際1番線ホーム(現在の0番線ホーム)で20分ほど機回しを行い、新駅ビルの中央改札口の正面で、蒸気と煙を上げるC62形が展示されるという演出がなされた。
本機は東日本旅客鉄道(JR東日本)への管外貸出が2回ある。1度目は鉄道の日制定および大宮工場開設100周年記念として、1994年(平成6年)10月9日に行われた大宮工場の公開イベント「新旧つばめの出会うとき」で、JR東日本が保有するEF55形1号機およびEF58形93号機、九州旅客鉄道(JR九州)から借り入れた787系電車とともに展示された。2度目は1999年(平成11年)8月1日から9月12日に行われたアニメの企画「ドリームトレイン1999」のイベントで、品川駅にて展示された。しかしながら、この回送途中に軸焼けしていることが判明したため、それ以降、長距離の移動を伴う貸し出しは行われなくなった。2010年(平成22年)ごろには過熱管の水漏れの発生により休車していたが、梅小路蒸気機関車館開館40周年記念事業の一環として修理され、その記念日の2012年(平成24年)10月10日に正式に構内運転復帰となった[19]。
2013年(平成25年)7月20日にはイベント「銀河鉄道999とC62形蒸気機関車」にて、漫画「銀河鉄道999」の999号と同形式であるC62形2号機に「999」のヘッドマークを取り付け、「SLスチーム号」として構内を走行した。
2016年(平成28年)4月29日以降は京都鉄道博物館で引き続き「SLスチーム号」の保存運転をおこなっている。
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3号機は廃車後、小樽築港機関区で保管の後に1977年から北海道鉄道記念館(現・小樽市総合博物館)で静態保存されていたが、国鉄分割民営化直前に小樽築港機関区で復元された。現在は北海道旅客鉄道苗穂工場内の北海道鉄道技術館で静態保存されている。詳細は下記ページを参照。
日本の蒸気機関車最高速度記録保持機の17号機は名古屋市千種区・東山動植物園に1971年から保存されていたが、2011年3月、名古屋市港区に開館したリニア・鉄道館に移設された[20]。
C62 17(リニア・鉄道館 2013)
2014年4月に閉館となった大阪市港区・交通科学博物館には26号機が1966年から閉館まで静態保存されていた。その後、2016年に開館した京都鉄道博物館に移設された[21]。
これらのほかに、東京駅丸の内側地下コンコース「動輪の広場」には15号機の動輪3組とメインロッド、それにサイドロッドが組み付けられた状態で保存展示されている。
以上のとおり、特徴的な形状で知られた汽車製造製グループの13両は1両も現存しない。この汽車製造製グループのラストナンバーにして、本形式のラストナンバーでもある49号機は、常磐線でのさよなら運転後、保存を考慮してしばらく平機関区に保管されていたが、結局保存先が決まらず、時期的に、いわゆるSLブームが社会現象となる直前の時期だったこともあり、そのまま1968年6月13日に関東支達42号により廃車・解体処分に付されてしまった。この49号を含め、汽車製造製グループは新造時より軽軸重仕様で竣工したものが多く、東海道・山陽本線系統ではなく東北・常磐線系統に配置され、比較的地味な運用に就いていたため、モニュメント性に欠けていた。
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