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メルセデス・ベンツ・300SL | |
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ガルウィングクーペ(1955年) ロードスター(1957年) | |
製造国 | ドイツ |
販売期間 | 1954年 - 1963年 |
デザイン | ルドルフ・ウーレンハウト |
乗車定員 | 2 名 |
ボディタイプ |
2ドア クーペ 2ドア ロードスター |
エンジン | M198 2,996cc 直6 SOHC 筒内直噴 |
駆動方式 | FR |
最高出力 | 215 PS / 5,800 rpm |
最大トルク | 28.0 kgm / 4,600 rpm |
変速機 | 4速 MT |
サスペンション |
前:ダブルウィッシュボーン 後:スイングアクスル |
全長 |
4,520 mm(クーペ) 4,570 mm(ロードスター) |
全幅 | 1,790 mm |
全高 |
1,300 mm(クーペ) 1,265 mm(ロードスター) |
ホイールベース | 2,400 mm |
車両重量 |
1,295 kg(クーペ) 1,235 kg(ロードスター) |
最高速度 |
260 km/h(クーペ) 225 km/h(ロードスター) |
-自動車のスペック表- |
メルセデス・ベンツ・300SL(Mercedes-Benz 300SL )は、ドイツの自動車メーカーダイムラー・ベンツ(現ダイムラー)が開発・製造したスポーツカーである。同社の高級スポーツカー、SLクラスの初代モデルにあたる。
ガルウィングドアと世界初のガソリン直噴エンジンを特徴とする2シーター・クーペ。1957年以降はオープンのロードスターに変更された。
車名の「300」はエンジン排気量3リットル、「SL」はドイツ語「Sport Leicht」の略で軽量スポーツカーを意味する。ダイムラー・ベンツの社内コードはW198。
300SLはそもそもワークス・チーム用のプロトタイプレーシングカーとして開発された(社内コードはW194)。1952年の国際スポーツカーレースで収めた成功の中でも、「世界一過酷な公道レース」といわれたカレラ・パナメリカーナ・メヒコにおける勝利は、アメリカのスポーツカー愛好家たちに強い印象を与えた。
多くのドライバーが事故で死亡したため、“Widowmaker”(直訳すると「未亡人製造機」)というありがたくないあだ名を与えられた。
300SLは左ハンドル仕様のみの設計であり、右ハンドル仕様車は生産されなかった。
今日、300SLはその独特なドアと世界初の技術のためにすべての年代を通してもっとも収集すべきメルセデス・ベンツのひとつとなっている。価格は40万ドルまで達している。『スポーツカー・インターナショナル』誌は300SLを歴史上5位のスポーツカーにランクしている。
300SLのドアはルーフ上にヒンジのある跳ね上げ式で、開放するとカモメの翼のような形状となることからガルウィングドアと呼ばれた。この方式は装飾面からデザインされたのではなく、実用目的であり、レーシングカーであるがゆえのものだった。プロトタイプのシャーシは軽量化と強度確保を両立させる目的で、細い鋼管を組み合わせたマルチチューブラー・スペースフレームを採用した。この構造では上下のサイドメンバーが座席の脇を縦貫するため、ドア開口部の「敷居」にあたるサイドシルが高くなり過ぎ、通常のドアでは乗り降り困難になってしまった。そこで、レースでの最低限の乗り降りのため、跳ね上げ式ドアを採用することになった[3]。レース参戦時にクレームを受けると、メルセデスチーム監督のアルフレート・ノイバウアーは「ドアが横開きに限るとはどこにも書いていない」と主張し承認されたという[4]。オリジナルでは開口部がサイドガラス辺りまでしかなく、サイドシルを大きく跨いで乗り降りしていたが、1952年のル・マン24時間レースに出場した際、主催者から安全面のアドバイスを受けて開口部を拡げた[5]。
この方式は同じシャーシ構造をもつ市販型300SLでも継承された。ステアリングは乗降時にヒザにぶつからないよう、前方に倒れる可倒式とされた。しかし、当時の技術では窓の開閉ができないという欠点があり、室内はエンジンの発する熱が入り込んでかなり暑くなってしまう。リアウインドウに排熱用の機構があるが、あまり機能しなかったとのことである。さらに当時はカーエアコンを自家用車に搭載するという考えもほとんどなかった時代であったため、真夏の運転は過酷を極めた。
性能優先のスポーツカーであり、乗降性や快適性を重要視した設計ではないが、スカートやドレス姿の女性をエスコートする富裕層にとっては、この車の乗り降りのしにくさはいささかの問題となった。後のロードスターモデルでは日常的な使用を考慮してフレームが再設計され、ドアの形状・開閉方向が一般的なものとなり、窓も開閉できるようになった。それでも鋼管スペースフレームゆえの開口部の狭さから、乗り降りには多少の慣れを要した。
300SLプロトタイプは300リムジン (W186) の3.0L直列6気筒SOHCエンジンを115 PSから171 PSにレースチューンし、左に50度傾けて設置した。市販型300SLではソレックス製キャブレターに替えて、ボッシュ製の機械式燃料噴射装置を採用し、最高出力は当初の2倍近い215 PS / 5,800 rpm[6](SAE表示では240 PS[7])、最大トルクは28.0 kgm / 4600 rpmを発生した[6]。
ガソリン車において最初であるこの新型の燃料直接噴射装置は最高時速260 km/hをもたらした。300SLは市販車としては当時、最速の自動車であった。整備は現在の電子式燃料噴射装置に比べて高度な技術が要求された。機械的な燃料ポンプは点火を止めてもエンジンが停止するまでガソリンを噴射しつづけた。このガソリンは燃焼せずシリンダの壁面のオイルを洗い流し悪影響を与えた。そのうえ、街乗りよりもレースでの効果が顕著な10Lの大型のオイルクーラーを搭載したため、残留ガソリンの蒸発効果が低下してオイルを洗い流すスピードが速まり、約1,600kmごとにオイル交換が必要になるなど交換周期はさらに短くなった。クラッチはとても重く、多くのドライバーが次の日、ふくらはぎが痛んだと推測される。後期のロードスターではペダルを踏む力を軽減するためにバネがつけられた。
スポーツカーレース用ワークスマシン。シャーシやボディは新設計だが、エンジンや足回りは開発期間短縮のため300リムジン (W186) から流用した。「SL」は計画発表段階では「Super Leicht(超軽量)」を意味しており[8]、スペースフレームと軽量なアルミ製ボディにより車重を870 kgに抑えている。ボディラインは市販型よりも丸みを帯びており、フロントグリルは扁平な楕円形。
レース参戦と並行してスーパーチャージャー式エンジンやエアブレーキの搭載がテストされた。レース活動終了後の1953年には、トランスアクスルや燃料噴射エンジンのテストカーも製作されている。
ガソリン直噴エンジンを搭載するロードバージョン。ボンネットとドア、トランクリッドを除いてスチール製ボディとなり、車両重量は大幅に増加した。フロントはフェイスリフトされ、ボディラインは抑揚のついたデザインとなり、ホイールハウス上のフィンと排熱用のエアベントが追加された。内装も顧客層にあわせて、高級感のある仕様に変更された。ロードスターにはオプションで着脱式のハードトップ・ルーフが用意されていた。
リアサスペンションはキャンバーの変化により突発的なアンダーステアを起こすことがあり、ロードスターモデルではスイングアクスルのピボット位置を下げ、マイルドな挙動を示すよう改良された。また、ロードスターでは燃料タンクが小型化され、トランクルームが拡大された。ホイールベースは変わらないが、全長はやや長くなっている。
クーペモデルとロードスターモデルとではフロントまわりのデザインが異なっており、クーペが丸形2灯式ヘッドランプなのに対しロードスターは異形縦型楕円2灯式ヘッドランプである。ただし、顧客の希望に応じて、ダイムラーベンツ本社が丸形と縦型のヘッドランプを取り替えた例も少なからずある[9]。日本において石原裕次郎の愛車として知られる個体は、ロードスタータイプのヘッドランプの付いたクーペである。
また、オープンスポーツモデルの300SLSも少数存在する。
外見は300SLと共通するシルエットでホイールベースも2,400mmと同一だが、中身は別物であり、W121系シャーシをベースとした設計にキャブレター式1.9L直列4気筒SOHCのM121エンジン (110 PS) を搭載する。300SLに比して格段に廉価なうえ、特殊設計だらけで運転も整備も制約の多かった300SLと違い、穏健・常識的な性能水準に抑えられて一般ユーザーにも扱いやすかったことから、商業的には大いに成功を収めた。ロードスターとして発売され、後にハードトップモデルが追加された。
300SL, 190SLともにブレーキは前後とも当初はドラムブレーキであったが、1961年以降はディスクブレーキに変更されている。
第二次世界大戦後レース活動を休止していたメルセデス・ベンツは、グランプリレースへの復帰を計画。その準備段階として300SLプロトタイプを製作し、1952年のみスポーツカーレースにワークス参戦した。エンジン出力は175PSしかなかったが、軽量で空気抵抗の少ないシャーシにより、フェラーリ、ジャガーといった強敵を相手に、高速レースでも驚くべき実力をみせた。メカニズムの優れた信頼性と、鉄壁のサポート体制も成功の要因となった。
デビューレースのミッレミリアでは2位と4位を獲得。ベルンGPの前座レースで最初の勝利を得たが、名手ルドルフ・カラツィオラが負傷し、第一線から退くことになった。1952年のル・マン24時間レースでは首位のピエール・ルヴェー(タルボ)がゴール1時間前にリタイアしたことで、ヘルマン・ラング / フリッツ・リース組が総合優勝を果たした。地元ニュルブルクリンク25周年記念レースでの勝利を経て、メキシコで行われたカレラ・パナメリカーナ・メヒコにも遠征し、カール・クリンク / ハンス・クレンク組が優勝してワークス活動を締めくくった。
カレラ・パナメリカーナ・メヒコの有名なエピソードとして、優勝者のクリンク / クレンク組を襲ったハゲタカ衝突事故がある。峠道を200 km /hで走行中、道路脇から飛び立ったハゲタカの群れの一羽がウィンドスクリーンに衝突。その衝撃でナビゲーターのクレンクは流血し、一時意識を失ったが、レースを止めることなく70 km先のタイヤサービス地点まで走り切った。その後は、対策としてウィンドスクリーンの前に8本の鉄柵を取り付けて走行することになった。
市販型300SLをベースとした車両によるワークス活動は行われなかったが、ミッレミリアのGTクラス優勝などプライベーターの活躍によりレースシーンを賑わせた。
1955年、メルセデスは300SLR(3リッター直列8気筒燃料直噴エンジン)によって世界スポーツカー選手権を制覇する。ただし、300SLRは名前は似ているものの、W194がベースである300SLとは異なり、W194の次に設計されたレーシングカーであるF1マシンW196がベースであり、300SLと300SLRに直接の関連は無い。
1996年、メルセデス自身の手によってAMG製エンジンや最新のシャーシの上に300SLのボディを被せたカスタムカーが2台製作され、外誌がこの存在をスクープした(日本ではカーグラフィック誌が配信)。注文主は明らかされなかったが、ブルネイのハサナル・ボルキア国王ではないかと報じている。オリジナルの300SLは左ハンドル仕様のみ製造されたが、この2台は右ハンドル仕様であった。
2009年、ガルウイングアメリカ社は300SLのレプリカモデル製作を発表した[10]。これは市販型ではなく、カレラ・パナメリカーナ・メヒコに出場したプロトタイプをモチーフにしていた。
F1のセーフティカーとしても使用されていたSLS AMGは、ガルウィングドアなど300SLの意匠を継承している。
2012年、ダイムラーは許可なく300SLのレプリカを製造・販売していたドイツ国内の企業を訴え、勝訴した後に、そのレプリカをスクラップにする模様を公開して、違法コピーを拒絶する姿勢を示した[11]。
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