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この項目では、甘味料の一種について説明しています。その他の用法については「砂糖 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
砂糖(さとう、英: sugar)は、甘みを持つ調味料(甘味料)である。物質としては糖の結晶で、一般に多用されるいわゆる白砂糖の主な成分はスクロース(ショ糖)である。サトウキビやテンサイなどを原料としてつくられる。
砂糖の歴史は古く、その発明は2500年前と考えられている。インドからイスラム圏とヨーロッパへ順に伝播してゆき、植民地に開拓されたプランテーションでは奴隷を労働力として生産された。19世紀末にはそれまでの高級品ではなく一般に普及する食品となったが、20世紀を通じてグローバルな生産調整が行われた。欧州で1968年から行われてきた砂糖クオータ制度は2017年9月末をもって廃止された。
世界保健機関(WHO)は2003年の報告で、砂糖摂取量は総カロリー対して10%以下となるよう推奨したが[1]、2014年には証拠の蓄積により新たに5%以下にすることの利点を追加した[2]。2016年にWHOは清涼飲料水への課税を促し、肥満、2型糖尿病、虫歯を減らせた[3]。各国は肥満税やガイドラインを作成し、砂糖消費の削減を狙ってきた。
搾りかすなどの副生成物の年間排出量は、世界中で約1億トン以上で、製糖工場自身の燃料として利用されるだけでなく、石灰分を多く含むため、製鉄、化学工業、大気汚染防止のための排煙脱硫材、上下水の浄化、河川海域の水質底質の改善、農業用の土壌改良材[4] など様々な利用がされている。また搾りかすの一部は、堆肥として農地に還元[5]されるほか、キクラゲの菌床栽培の培地原料としても利用される。
サトウキビの茎を細かく砕いて汁を搾り、その汁の不純物を沈殿させて、上澄み液を取り出し、煮詰めて結晶を作る。伝統的な製法では、カキ灰に含まれるカルシウム等のミネラル分が電解質となり、コロイドを凝集させる為、カキ殻を焼いて粉砕したカキ灰を沈殿助剤として加える例もある。煮詰めてできた結晶と結晶にならなかった溶液(糖蜜)の混合物を遠心分離機にかけて粗糖を作る。粗糖の表面を糖蜜で洗った後、さらに遠心分離機にかけて、結晶と糖蜜を分ける。その結晶を温水に溶かし、不純物を取り除き、糖液にする。それを煮詰めて結晶を生じさせ、真空状態のもとで糖液を濃縮する。結晶を成長させた後、再び遠心分離機にかけて、現れた結晶が砂糖となる。
光合成において飽和点が高いため、他の植物よりも多く糖質を生産できる。
テンサイの根を千切りにし、温水に浸して糖分を溶け出させて、その糖液を煮詰め、濾過して不純物を取り除く。真空状態のもとで糖液を濃縮し、結晶を成長させた後、遠心分離機にかけて現れた結晶が砂糖である。
砂糖の原料となりうるテンサイのベータブルガロシド(betavulgaroside)類には小腸でのグルコースの吸収抑制等による血糖値上昇抑制活性が認められた[6](詳細はサポニンを参照のこと)。
サトウカエデの幹に穴を穿ち、そこから樹液を採集する。その樹液を煮詰めて濃縮したものがメープルシロップである。これを更に濃縮を進めて固体状になったものがメープルシュガーである。
なお、糖分がやや低いものの、日本などに自生するイタヤカエデからもメープルシュガーを作ることは可能であり、終戦直後の砂糖不足の時代に東北や北海道で製造が試みられたことがあるが、商業化ベースには乗らずに終わった[7]。
オウギヤシは東南アジアからインド東部にかけて栽培されている。樹液からパームシュガー(椰子砂糖)が作られる。また、それを発酵させて酒を作る。
モロコシ属のうち、糖分を多く含むものの総称で、アメリカを中心に栽培されている。煮詰めてソルガムシュガー(ロゾク糖)をつくることもできるが、グルコースやフラクトースを多く含むため結晶化させにくく、結晶糖の収量としてはサトウキビやテンサイに劣るため、シロップの原料として使用されることが多い。近年ではバイオエタノールの原料としても多く利用されている[8]。
サトウキビの原産地は、南太平洋の島々で、そこから東南アジアを経て、インドに伝わったとされるが、「インド原産」という説も強い。 砂糖の歴史は古く、約2500年前に東インドでサトウキビの搾り汁を煮詰めて砂糖をつくる方法が発明されたと考えられている[9]。例えば、カウティリヤにより紀元前4世紀後半に書かれたとされるサンスクリットで書かれた古典「アルタシャーストラ」(「実利論」)には、純度が一番低いグダ、キャンディの語源とされるカンダ、純度が最も高いサルカラ (SarkaraあるいはSarkkara) の3種類の砂糖の説明が記載されている[9]。サルカラは英語のSugarやフランス語のSucreの語源になった。 また、パタンジャリが紀元前400~200年の間に書いたと推定されるサンスクリット文法の解説書「マハーバーシャ」には、砂糖を加えたライスプディングや発酵飲料などの作り方が記載されている[10]。 砂糖は病気による衰弱や疲労の回復に効果があるとされ、薬としても用いられた。当時は「インドの塩」等と呼ばれ、塩などと関連づけられていた。
ダレイオス1世はインド遠征の際にサトウキビをペルシアに持ち帰り、国家機密として輸出と栽培を独占した。その後サトウキビは戦乱とともに黒海方面やペルシャ湾岸、中東一帯に広がっていった。フェニキア人や古代エジプト人は砂糖を香辛料や生薬として扱った。中国での砂糖製造の歴史は古く主に広東地方で行われていた。唐代の本草学者、蘇敬の『博物誌』には「太宗は砂糖の製造技術を学ぶため、リュー(インド)、とくにモキト(ベンガル)に職人を派遣した」と記述されている。
古代ギリシャのテオフラストスは『植物学概論』で「葦から採れる蜜」について書き留めている。そしてアレクサンドロス3世がインドに遠征した。また、帝政ローマ時代のギリシア人医師ディオスコリデスは砂糖をサッカロン(saccharon)と呼び、考察を行った。プリニウスやストラボンなど以後のローマ時代の学者はこれに倣った[11]。
ローマ帝国の版図はインドに及ぶことがなかった。欧州がインドと経済交渉するときは、トルキスタン西部の銀鉱山を中心とするイスラム経済圏を介する必要があった。英語のシュガーとスターリングは実際アラビア語に由来する。
966年ヴェネツィア共和国が中東から来る砂糖を貨物集散所に通して流通させる仕組みをつくった。11世紀末に十字軍がサトウキビをキプロスに持ち帰った。まず14世紀にはシチリアで、ついで15世紀初頭にはバレンシア地方へ栽培法が伝播し、地中海周辺が砂糖の生産地となった。しかし、この15世紀からは大西洋の探検が少しずつ始まり、スペインがカナリア諸島で、ポルトガルがマデイラ諸島とアゾレス諸島でそれぞれサトウキビ栽培を始めた。この島々からの砂糖は1460年代には欧州へ輸出されており、シチリアやバレンシアでの砂糖生産は競争に敗れて衰退した。[12]
新大陸の発見によって、まず最初に砂糖の大生産地となったのはブラジルの北東部(ノルデステ)だった。1530年代にサトウキビ栽培が始まり、1630年にレシフェを中心とする地方がオランダ領となると、さらに生産が促進された。しかし1654年にブラジル北東部が再びポルトガル領となると、サトウキビ生産者たちは技術を持ったままカリブ海のイギリスやフランス領に移民し、1650年代からはカリブ海域において大規模な砂糖プランテーションが相次いで開発され、この地方が砂糖生産の中心地となった[13]。砂糖プランテーションには多くの労働力が必要だったが、この労働力は奴隷によってまかなわれ、アフリカから多くの黒人奴隷がカリブ海域へと運ばれた。ここで奴隷船は砂糖を買い付け、ヨーロッパへ運んで工業製品を購入し、アフリカで奴隷と交換した。この三角貿易は大きな利益を上げ、この貿易を握っていたイギリスはこれによって産業革命の原資を蓄えたとされる。またこれらの西インド諸島の農園主たちは本国議会に議席を確保するようになり、18世紀には西インド諸島派として保護貿易と奴隷制を主張する一大勢力をなしていた。1764年にイギリス本国議会において可決された砂糖法は、英領以外から輸入される砂糖に課税するもので、税収増と西インドの砂糖業保護を狙ったものだったが、アメリカの13植民地の反対を受けて撤回を余儀なくされた。しかし砂糖法は始まりにすぎず、1765年の印紙法や1770年のタウンゼント諸法などによってアメリカ植民地の支配が強化されると植民地の不満は爆発し、アメリカ独立戦争へとつながっていくことになった。18世紀後半にはフランス領サン・ドマングが世界一の砂糖生産地となったが、1804年のハイチ革命によりハイチが独立すると支配者層が追放されて農園は黒人に分配され、砂糖生産は一気に衰退した。
一方、1747年にドイツの化学者アンドレアス・マルクグラーフ(Andreas Sigismund Marggraf)がテンサイから砂糖と同じ成分をとりだすことに成功した。1806年から1813年の大陸封鎖による影響で、イギリスからヨーロッパ大陸へ砂糖が供給されなくなった。そのためにナポレオンが砂糖の自給自足を目的としてテンサイに注目し、フランスやドイツを始めヨーロッパ各地に甜菜糖業の大規模生産が広まり製糖業が発達した。ナポレオン戦争後砂糖の供給が元に戻ってもテンサイの増産は続いた。
その一方で、サトウキビからの砂糖生産も増加の一途をたどった。19世紀にはいると、イギリスはインド洋のモーリシャスや南太平洋のフィジーにもサトウキビを導入し、プランテーションを建設した。すでに奴隷制はイギリスでは廃止されていたため、ここでの主な労働力は同じイギリス領のインドから呼ばれたインド人であった[14]。そのため、現在でもこの両国においてはインド系住民が多い。やがてオーストラリアのクイーンズランド州でも生産するようになる。
アメリカの砂糖史は以降の主役である。ルイジアナ買収とアダムズ=オニス条約によるスペイン領フロリダ割譲が、最初の生産地誕生であった。関税に保護されてルイジアナとフロリダの生産量は向上していった。そして1860年キューバでの砂糖生産も世界の4分の1を占めるまでになっていた[15]。南北戦争を機会に砂糖は増産され続けた。ハワイ王国からの輸入も1860年から1865年で13倍以上も増加した。終戦後ハワイの対米輸出は需要の減退と関税の引き上げに阻まれた。そこでハワイ製糖産業の中核(エージェンシー)は、政府にアメリカへの併合等を要求して1876年に米布互恵条約を締結させた[16]。この条約は無関税を約束させるかわりに、どのような特権もアメリカ以外に貸与できなくなるものであった。1884年、この条約は真珠湾に米軍基地を建設し同湾を独占使用する条件で更新された(ハワイ併合まで継続)[16]。1890年アメリカは砂糖関税の徴収を廃止した。このマッキンレー関税法は合衆国本土生産者に補助金を出したので、ハワイとキューバの競争は熾烈なものとなった。米布間に海底ケーブルの敷かれた1895年、ハワイの製糖組合HSPA(Hawaiian Sugar Planters' Association)が結成され、さっそく生産性向上に貢献した。キューバ事情としては1899年ユナイテッド・フルーツが設立された。
19世紀末の国際価格低落による砂糖消費の増加は非アルコール飲料の消費増加と軌を一にしている[17]。砂糖入り飲料(イギリスでは砂糖入り紅茶、ヨーロッパ大陸では砂糖入りコーヒー)とパンの組み合わせが庶民の安く手軽な朝食として取り入れられ、一般的なものとなっていったのである[18]。厳しさを増す国際市場では砂糖トラストが生成された[19]。
米西戦争でアメリカは砂糖生産地を拡大した(プエルトリコ・フィリピン・キューバ)。1903年米玖互恵通商条約は両国間の関税を20%引き下げた。キューバは、産業構造が砂糖生産に特化してしまい、輸出先はもちろんアメリカに限定され、輸入面においては1907年恐慌の非常口となった。フィリピンは南北戦争を機に砂糖の対米輸出を増加させて、1880年代には対米輸出が砂糖輸出額の60%を占めた。しかし低質なフィリピン糖は次第に受け入れられなくなり、1890年代には対米輸出割合が10%に落ち込んだ。その後、革命と牛疫で生産量も減じた。米西戦争でアメリカ領となってからも「パリ条約第四条」の規定に対米自由貿易とアメリカ資本受け入れを阻まれていた。1909年以降、フィリピンは制限を解かれ第一次世界大戦まで順調に対米輸出量を増やした。[16]
戦場となった欧州は焼け野原となりテンサイ糖業も衰退した。一時サッカリンが砂糖の代用品となった。現在アセスルファムKも出回っている。これら代用品は砂糖以上の健康にかかわる問題が指摘されている。この点、高橋久仁子は1999年に砂糖の過剰摂取防止のためにエビデンスのない有害論を持ち出すのは問題であり、「現在の消費水準及び使用法で有害であることを示す証拠はない」と主張している[20]。代用品を売り込む方便としての有害論は危険である。
キューバ糖は戦時中に関税引き下げのため世界で図抜けて増産していた(100万トン)。戦後にアメリカで価格統制が取り払われた。すると1920年5月ニューヨーク粗糖相場は1ポンド23.57セントにまで暴騰した。このときヴェルサイユ体制により旧ドイツ帝国の技術と機械で欧州のテンサイ糖業が復興していた。そして早くも同年8月に価格は下落して12月に4.16セントまで暴落した(世界農業恐慌)。それでもキューバ糖はモノカルチャーなので生産調整できなかった。そのように工作した合衆国は1921年以降、キューバ糖を関税で締め出しながら、本土・属領(ハワイ・フィリピン・プエルトリコ)の砂糖生産は野放しに保護した。[16]
1931年のチャドボーン(Thomas Chadbourne)協定がモノカルチャー国へとどめをさした。キューバは砂糖輸出先の大部分を失った。1925年には500万トンを超えていた生産量は1933年およそ200万トンにまで激減した。キューバの購買力が下がりすぎて、アメリカ製品をキューバへ輸出することが難しくなった。しかし農業調整法は砂糖を政府買上げの対象としなかった。1933年初頭に関税委員会が「供給統制計画」を立案し、同年7月に農務長官が「砂糖安定協定」を作成した。そして1934年5月9日からジョンズ・コスティガン砂糖法(Jones–Costigan amendment)が施行され、1974年まで運用された。法律の割当によると、ハワイ・フィリピン・本土甘藷は減産の必要があったのに対して、キューバ・本土テンサイ・プエルトリコには増産の余地があった。[16]
フィリピン独立法がフィリピン糖の対米輸出を制限した[16]。フィリピンの糖業は次第に縮小した。
ハワイではブルーワー(C. Brewer & Co.)とアメリカン・ファクターズ(Amfac, Inc.)の二大エージェンシーが1935年までに島内プランテーションの半分以上を所有した。後者は元来ドイツ帝国のハックフィールド商会であったが、敵性資産として売却されたのだった。ハワイの地域総生産高において、1930年代後半から第二次世界大戦に備え軍事支出が30%を占めるようになった。[16]
日本には奈良時代に鑑真によって伝えられたとされている。中国においては唐の太宗の時代に西方から精糖技術が伝来されたことにより、持ち運びが簡便になったためとも言われている。当初は輸入でしかもたらされない貴重品であり医薬品として扱われていた。精糖技術が伝播する以前の中国では、砂糖はシロップ状の糖蜜の形で使用されていた。
平安時代後期には本草和名に見られるようにある程度製糖の知識も普及し、お菓子や贈答品の一種として扱われるようにもなっていた。室町時代には幾つもの文献に砂糖羊羹、砂糖饅頭、砂糖飴、砂糖餅といった砂糖を使った和菓子が見られるようになってくる。名に「砂糖」と付くことからも、調味料としての砂糖は当時としては珍しい物だということがわかる[21]。狂言『附子』の中でも珍重されている。日明貿易も海禁政策の影響を免れなかったということになる。
やがて戦国時代に南蛮貿易が開始されると宣教師たちによって金平糖などの砂糖菓子がもちこまれ、さらにアジアから砂糖の輸入がさかんになり(やがてオランダが中継する)、徐々に砂糖の消費量は増大していく。
世界の歴史ではオランダ領東インドの砂糖プランテーションに触れなかったが、それは日本の砂糖事情と密接に関係している。
江戸時代初期、薩摩藩支配下の琉球王国では1623年に儀間真常が部下を明の福州に派遣してサトウキビの栽培と黒糖の生産法を学ばせた。帰国した部下から得た知識を元に砂糖生産を奨励し、やがて琉球の特産品となった。
江戸時代には海外からの主要な輸入品のひとつに砂糖があげられるようになり、オランダや中国の貿易船がバラスト代わりの底荷として大量の砂糖を出島に持ち込んだ。このころ日本からは大量の金・銀が産出されており、その経済力をバックに砂糖は高値で輸入され、大量の砂糖供給は砂糖を使った和菓子の発達をもたらした。しかし17世紀後半には金銀は枯渇し、金銀流出の原因のひとつとなっていた砂糖輸入を減らすために江戸時代の将軍徳川吉宗が琉球からサトウキビをとりよせて江戸城内で栽培させ、サトウキビの栽培を奨励して砂糖の国産化をもくろんだ。また、殖産興業を目指す各藩も価格の高い砂糖に着目し、自領内で栽培を奨励した。とくに高松藩主松平頼恭がサトウキビ栽培を奨励し、天保期には国産白砂糖のシェア6割を占めるまでになった。また、高松藩はこのころ和三盆の開発に成功し、高級砂糖として現在でも製造されている。こうした動きによって19世紀にはいると砂糖のかなりは日本国内でまかなえるようになった。天保元年から3年(1830年から1832年)には、大坂での取引量は輸入糖430万斤と国産糖2320万斤、あわせて2750万斤(1万6500トン)となり、さらに幕末の慶応元年(1865年)にはその2倍となっていた[22]。一方、このころ大阪の儒者である中井履軒は著書「老婆心」の中で砂糖の害を述べ、砂糖亡国論を唱えた[23]。また幕府も文政元年(1818年)にサトウキビの作付け制限を布告したが、実効は上がらず砂糖生産は増え続けた。江戸時代、国内の砂糖の流通は砂糖問屋が行っていた。
天保の改革にあたり薩摩藩は大島・喜界島・徳之島の三島砂糖買入れ制度を実施した。
明治時代初期、鹿児島県徳之島における砂糖製造は下の図に示す手順で行われた。
明治時代中期、大日本製糖などの独占的な企業体も現われた。これには次のような政治背景がある。
日清戦争の結果として台湾が日本領となると、台湾総督府は糖業を中心とした開発を行った。また第一次世界大戦の結果、日本の委任統治領となった南洋諸島のうち、マリアナ諸島のサイパン島、テニアン島、ロタ島でも南洋興発による大規模なサトウキビ栽培が始まった。これにともなって日本には大量の砂糖が供給されることとなったが、沖縄を除く日本本土ではサトウキビの生産が衰退した。しかし台湾や南洋諸島での増産によって生産量は増大しつづけ、昭和に入ると砂糖の自給をほぼ達成した。一方、北海道においては明治初期にテンサイの生産が試みられたが一度失敗し、昭和期に入ってやっと商業ベースに乗るようになった。
この砂糖生産の拡大と生活水準の向上によって砂糖の消費量も増大し、1939年には一人当たり砂糖消費量が16.28kgと戦前の最高値に達し、2010年の消費量(16.4kg)とほぼ変わらないところまで消費が伸びていた[24]。しかしその後、第二次世界大戦の戦況の悪化にともない砂糖の消費量は激減し、1945年の敗戦によって砂糖生産の中心地であった台湾や南洋諸島を失ったことで砂糖の生産流通は一時大打撃を受け、1946年の一人あたり消費量は0.20kgまで落ち込んだ。その後1952年に砂糖の配給が終了して生産が復活し、日本の経済復興とともに再び潤沢に砂糖が供給されるようになった。
1976年オイルショックという国際環境で日豪砂糖交渉が行われ、新しい太平洋問題として現出した。
順位 | 国 | 生産量 (百万トン) |
---|---|---|
01 | ブラジル | 24,8 |
02 | インド | 22,1 |
03 | 中国 | 11,1 |
04 | アメリカ合衆国 | 8,0 |
05 | タイ | 7,3 |
06 | オーストラリア | 5,4 |
07 | メキシコ | 4,9 |
08 | フランス | 4,4 |
09 | ドイツ | 4,2 |
10 | パキスタン | 4,0 |
11 | キューバ | 3,8 |
12 | 南アフリカ共和国 | 2,6 |
13 | コロンビア | 2,6 |
14 | フィリピン | 2,1 |
15 | インドネシア | 2,1 |
16 | ポーランド | 2,0 |
日本軍がフィリピン糖業を破壊すると、キューバの生産量は1939年の300万トンから1947年の650万トンにまで増加した。1948年フィリピンからの輸出が再開されるとアメリカで新たな砂糖法が施行され、キューバが再び減産を強いられた[16]。1953年、新たな国際砂糖協定が生産割当を策定した。1968年から欧州域内で生産調整する砂糖クオータ制度がスタートした。EUとアメリカの貿易摩擦により、この制度は1981年から欧州の補助金付き対米輸出を裏づけるものとして機能するようになった。
砂糖の生産量は増加しており、1980年代には年1億トン前後であったものが2000年代には年1.4–1.5億トン程度になっている[27]。全生産量のうち約30%が貿易で取引される。生産量の内訳は、サトウキビによるものが約70%、テンサイによるものが約30%である[28]。サトウキビからの砂糖の主要生産国は、ブラジル・インド・中国などであるが、ブラジルは中国の約3倍の生産量、インドは中国の約2倍の生産量である[29]。テンサイからの砂糖の主要生産国は、EU各国(ドイツ・フランス他)、アメリカ合衆国、ロシアである。
一方、輸出国は主要生産国とは異なっている。これは、主要生産国のかなりが生産量は多いものの国内需要を満たすことができないことによる。世界最大の輸出国はブラジルであり、2008年には2025万トン、世界の総輸出量の59.6%を占め、圧倒的なシェアを持っている。次いでタイが510万トン(15.0%)、オーストラリアが389万トン(11.5%)、グアテマラが159万トン(4.7%)、南アフリカが80万トン(2.4%)と続く[30]。
砂糖はさまざまな工業製品の原料として利用されている。オリゴ糖やパラチノース、食品添加物(乳化剤)のショ糖脂肪酸エステルは砂糖を原料として製造されており[31]、着色料としてのカラメルも砂糖を原料とする。また、ポリウレタンやポリエステル、プラスチックの原料としても利用されている[32]。近年では石油に代わる燃料としてバイオエタノールが注目された。そこでサトウキビやテンサイがバイオエタノールの製造に多く使用された。糖分を多く含む可食部分を醸造原料に使う限りエタノールは食料と競合するため、2007年-2008年の世界食料価格危機の主因となった。なお、バイオエタノール製造に不可欠なのは糖分であって、サトウキビやテンサイ由来でなくてもよい。
砂糖の日本国内消費・生産は、1995–2004年度の10年間平均値(1995年10月–2005年9月)では、国内総需要は年230万トン(国産36%:輸入64%)、国産量は年83万トン(テンサイ約80%:サトウキビ約20%)である[33]。年毎の動向を見ると、総消費量は、1985年には一人当たり21.9kgだったものが、2010年には16.4kgと大きく減少してきたが[34]、ここ数年は下げ止まっている状態である。
日本で販売されている砂糖のほとんどには、賞味期限が記載されていない。理由は食品衛生法やJAS法で、賞味期限の表示を免除されているためである[35][36]。一部のメーカーでは、代表的な長期保存の可能な食品である缶詰の賞味期限に倣う形で、製造後3年に設定していたことがあった[37]。長い賞味期限は在庫を膨張させている。
南北に長い日本列島はサトウキビの栽培に適した亜熱帯とテンサイ(ビート)栽培に適した冷帯の両方が存在する。国産量は微増傾向にあるが、それは主にテンサイ糖の増加によるもので、サトウキビ糖は微減傾向にある。 サトウキビの主たる生産地は沖縄県や鹿児島県で、戦前は他に台湾とマリアナ諸島で砂糖が大量に生産されていた。テンサイの生産地は主に北海道である。
日本の輸入はタイが約4割、オーストラリアが約4割、南アフリカが約1割をそれぞれ占め、この3カ国で9割以上の輸入をまかなっている。
主要国の国民1人1日当りの砂糖消費量(g)は以下のようである。日本は先進国の中では、非常に少ない方である[38][39][40]。
ブラジル | 172g | |
オーストラリア | 167g | |
ドイツ | 127g | |
アルゼンチン | 125g | |
オランダ | 120g | |
ロシア | 116g | |
タイ | 114g | |
メキシコ | 109g | |
フランス | 107g | |
エジプト | 100g | |
英国 | 93g | |
米国 | 89g | |
インド | 55g | |
日本 | 45g | |
中国 | 31g |
砂糖は、製造法によって含蜜糖と分蜜糖とに大きく分けられる。含蜜糖は糖蜜を分離せずにそのまま結晶化したもので、黒砂糖・白下糖・カソナード(赤砂糖)・和三盆・ソルガム糖、メープルシュガーなどがこれに当たる。糖蜜を分離していないため原料本来の風味が残るのが特徴である。ほとんどの精糖原料から作ることができるが、テンサイから砂糖を作る場合は高度な精製が必要なため、含蜜糖の製造は一般的ではない(不可能という訳ではない)。
これに対し分蜜糖は、文字通り糖蜜を分離し糖分のみを精製したものである。一般的に使用される砂糖はこちらがほとんどである。まず原料からある程度の精製を行い、粗糖を作成する。粗糖は精製糖の原料であり、不純物も多くそのままでは食用に適さない。このため、生産地の近くでまず一次精製を行って粗糖を作成した後、消費地の近くで二次精製を行って、商品として流通する精製糖が作られることが多い。しかし、生産地で粗糖を経由せず直接製造する耕地白糖や、粗糖工場に精製工場を併設して産地で精製した最終製品まで製造する耕地精糖といった種類も存在する。
精製糖は、大きくザラメ糖・車糖・加工糖・液糖の4つに分類される。ザラメ糖はハードシュガーとも呼ばれ、結晶が大きく乾いてさらさらした砂糖であり、白双糖・中双糖・グラニュー糖などがこれに属する。なお、一般的には白双糖と中双糖を指してザラメという。白双糖を白ザラメ、中双糖を黄ザラメともいう。一方、車糖はソフトシュガーとも呼ばれ、結晶が小さくしっとりとした手触りのある砂糖で、上白糖・三温糖などがこれに属する。液糖はその名の通り、液体の砂糖である。また、ザラメ糖を原料として、角砂糖・氷砂糖・粉砂糖・顆粒状糖などの加工糖が製造される。
日本においては最も一般的な砂糖は上白糖であり、日本での消費の半分以上を占める[41]が、上白糖は日本独自のもので、製造・消費されるのも主に日本であり、ヨーロッパやアメリカではほとんど使われない[42]。世界的には一般に砂糖といえばグラニュー糖を指す。
1970年代後半には、クロマトグラフィー果糖濃縮技術の出現で異性化糖(高果糖コーンシロップ、HFCS)の大量生産を可能とした[43]。急速に普及し、異性化糖の消費が増加し砂糖の消費を減少させた[43]。異性化糖は、トウモロコシなどを原料として作られ、清涼飲料水に含まれる「ブドウ糖果糖液糖」といったものである[44]。
砂糖は単に食品に甘味をつけるためだけではなく、食品にさまざまな効果を与えるためにも利用される[45]。
日本料理においては料理のさしすせその一つに数えられるなど、中心的な調味料の一つとなっている。これは、魚や野菜の煮物などを中心に醤油と砂糖の組み合わせを基本とする料理が多いことによる。一方、西洋料理や中華料理では料理そのものに砂糖を使用することは多くない。このため、家庭における砂糖の消費量は食の洋風化のバロメーターとなっている[46]。
国立健康・栄養研究所によれば、飲料に含まれる砂糖の量は、次のようである。[47][48]
ヤクルト‥‥‥‥‥‥砂糖 12g
コーヒー飲料(小)‥‥砂糖 18g
サイダー缶‥‥‥‥‥砂糖 36g
炭酸飲料(コーラ)‥‥砂糖 42g
文部科学省によれば、菓子類に含まれる砂糖の量は、次のようである。[49]
どらやき‥‥‥‥‥‥可食部100gに、砂糖38g
きんつば‥‥‥‥‥‥可食部100gに、砂糖40g
練りようかん‥‥‥‥可食部100gに、砂糖56g
シュークリーム‥‥‥可食部100gに、砂糖15g
ショートケーキ‥‥‥可食部100gに、砂糖23g
英国政府によれば、食品に含まれる砂糖の量は、次のようである。[50]
プレーン・チョコレート‥100gに、砂糖62g
フルーツ・ヨーグルト‥‥100gに、砂糖17g
トマト・ケチャップ‥‥‥100gに、砂糖28g
料理にも砂糖は含まれる。ただし、レシピごとに異なる。次の数字は一例である。なお、みりん大さじ1杯は、酒大さじ1杯と砂糖小さじ1杯で代用できる。
酢豚‥‥‥‥‥‥‥‥1人前に、砂糖5g
カツどん‥‥‥‥‥‥1人前に、砂糖7g
寿司ご飯‥‥‥‥‥‥1合のお米を炊いて、砂糖10gを加える
ラーメンのツユ‥‥‥1人前に、砂糖3g
ヒトの胃は1分間に約3回ほどのペースで動いているが、胃内に糖が入ると胃の動きが止まることが東京大学での実証試験で判明している。被験者に砂糖水を飲ませると数十秒間胃腸の動きが完全に静止し、逆に塩水を飲ませると胃腸の動きが急に活性化した。さらにはチューブで直接十二指腸へ糖分を流し込んだ実験でも胃の運動が停止した。量的には角砂糖の1/4-1/5個くらいで起こる。糖分は唾液、胃液、腸液などで5.4%等張液になり消化吸収されるため大量の糖分の摂取により1時間以上という長時間の停滞が起こるとされる。糖を飲ませると細胞の動きが緩慢になる反応を東京大学では糖反射と名付けたが、このメカニズムは未だ解明されていない。多すぎる糖の摂取は細胞にはいわば絶縁物質として作用し、神経信号の伝達を阻害するのではないかと考えられている。また、糖分はカリウムの働きも加味され静脈の弛緩をもたらすとともに血液粘度を上げる。そのため血流の遅滞が起こり、組織や静脈に老廃物が蓄積することで様々な病気が発症することがある[51][52]。
砂糖は多くの病気・疾患の原因になる食品として問題視されている。日本における古い例としては、日本に栄養学を創設した佐伯矩も、1930年の内務省衛生局『栄養と嗜好』にて「栄養研究の大いに進歩しているアメリカでは三白の禍として白パン・白砂糖・白い乳粉を憂いているが、わが国でも三白の禍ありて、それは白い米、白砂糖、白い味付けの粉がそれである」としており日米に重複しているのが砂糖であるし[53]、マクロビオティックの提唱者として有名な思想家桜沢如一が1939年に『砂糖の毒と肉食の害』を著している[54]。1978年に、英国の生理学者ジョン・ユドキンは、「純白、この恐ろしきもの - 砂糖の問題点」という本を書いた。また砂糖は「毒」であるとして、ロバート・ラスティグら米国の小児科医師たちが、健康への悪影響を挙げ、砂糖の害はたばこや酒と共通しているとして、同じように税を課すべきである との指摘を英国の科学雑誌ネイチャーに発表した[55]。またこの事に対し砂糖や飲料の業界団体が一斉に反論する事態となった[56]。砂糖を有害物質として規制すべきと一部の専門家たちが指摘している。砂糖は高カロリーで肥満をもたらすだけでなく、タバコやアルコールなどと同じ依存性があり、含有する成分の果糖が内分泌系に悪影響を与え、心臓病や心臓発作、2型糖尿病などを連鎖的に引き起こすリスクを高める。砂糖に関しては砂糖依存症が科学的に示されており、ほかの食品とは違った過剰摂取が起こる。
WHO/FAOは、レポート『食事、栄養と慢性疾患の予防』(Diet, Nutrition and the Prevention of Chronic Diseases WHO/FAO 2003年)という報告書において、慢性疾患と高カロリー食の関連を指摘し、食事中の総熱量(総カロリー)に占める糖類の熱量を10%以下にすることを推奨している [1][77]。なお、日本人の食事摂取基準(2005年版)推定エネルギー必要量の10%を糖類をすべて砂糖に換算した場合、成人で約50—70g程度の量(3gスティックシュガーで17—23本分)に相当する。
2014年には、世界保健機関は肥満と口腔の健康に関するシステマティック・レビューを元に[78]、砂糖の摂取量をこれまでの1日あたり10%以下を目標とすることに加え、5%以下ではさらなる利点があるという砂糖のガイドラインのドラフト(計画案)を公開した[2]。砂糖では、2000キロカロリーの10%は50グラム、5%は25グラムである。
2016年10月、世界保健機関は、清涼飲料水に課税することで、同飲料水の消費を削減でき、肥満を減らし、2型糖尿病を減らし、虫歯も減らせるようになる、と発表した[3](肥満税も参照のこと)。
2017年3月には、イギリスで2020年までに市場から年20万トンの砂糖を減らすためにガイドラインを作成し、飲料水は砂糖への課税により、また食品では、シリアル、ヨーグルト、ビスケット、ケーキ、クロワッサン、プリン、アイス、お菓子、甘いソースなどの調味料から砂糖を減らすように推奨した[79]。
アメリカの消費者団体(Center for Science in the Public Interest)は、「消費者は、糖分を多く含む食品の摂取を控えなければならない。企業は、食品や飲料に加える糖分を減らす努力をしなければならない」[80]と主張し、FDA(米国)へソフトドリンクの容器に健康に関する注意書きを表示し、加工食品と飲料によりよい栄養表示を義務付けるよう請求している。アメリカでは肥満対策のため、公立学校で砂糖を多く含んだ飲料を販売しないように合意されている[81]。アメリカでは、マクドナルドやペプシコなど11の大企業が、12歳以下の子供に砂糖を多く含む食品など栄養価に乏しい食品の広告をやめることで合意している[82]。イギリスでは2007年4月1日に砂糖を多く含む子供向け食品のコマーシャルが規制された[83]。
2011年4月28日、アメリカ食品医薬品局 (FDA)、アメリカ疾病対策センター (CDC)、アメリカ農務省 (USDA)、連邦取引委員会 (FTC) の4機関は、肥満増加の対策として子供に販売する飲食品の指針として、加工食品1食品あたりの上限を、飽和脂肪酸1グラム、トランス脂肪酸を0グラム、砂糖を13グラム、ナトリウム を210mgとした[84]。
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