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この項目は亡くなったばかりの人物について扱っています。その人物の死の詳細や取り巻く環境また状況が知れ渡っていくに従い、この項目の内容もまた急速に大きく変化することがありますのでご注意ください。2018年11月13日 (火) 03:09 (UTC)貼付。(表示終了予定:2018年11月20日 (火) 03:09 (UTC)) |
スタン・リー Stan Lee | |
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誕生 |
スタンリー・マーティン・リーバー Stanley Martin Lieber (1922-12-28) 1922年12月28日 ニューヨーク州ニューヨーク市 |
死没 |
(2018-11-12) 2018年11月12日(95歳没) カリフォルニア州ロサンゼルス |
職業 |
マーベル・コミック編集委員 マーベル・メディア名誉会長 |
言語 | 英語 |
国籍 | アメリカ合衆国 |
活動期間 | 1939年 - 2018年 |
ジャンル | 漫画原作 |
代表作 |
『アメイジング・スパイダーマン』 『ファンタスティック・フォー』 『X-メン』 『アイアンマン』 『ハルク』 『マイティ・ソー』 『デアデビル』 『ドクター・ストレンジ』 『アベンジャーズ』 |
主な受賞歴 |
ジュール・ヴェルヌ映画祭生涯功労賞 (2007年) |
親族 |
マーティン・グッドマン(叔父) ラリー・リーバー(弟) |
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スタン・リー(Stan Lee、1922年12月28日 - 2018年11月12日)は、アメリカン・コミックスの漫画原作者。本名はスタンリー・マーティン・リーバー(Stanley Martin Lieber)。マーベル・コミック編集委員、マーベル・メディア名誉会長。
マーベル・コミック発行責任者などを歴任した。
1960年代にマーベル・コミックで『スパイダーマン』、『X-メン』などのスーパーヒーローコミックの原作を手がけ、業界に変革をもたらした。現在はマーベル・コミックの編集委員、マーベル・メディアの名誉会長を務め、マーベル・コミックの実写映画版の製作総指揮などを務めている[1]。
スタンが編集後記の締めに用いる言葉「エクセルシオール(Excelsior)!!」[2]は彼の代名詞的な言葉となった[1]。今では当たり前となった作家陣のクレジット表記もスタンの発案により取り入れられた[1]。
1922年、マンハッタンのウェストエンド街でルーマニア系ユダヤ人の家庭に生まれる。少年時代はジャンルを問わず多数の映画と読書を嗜んだ[3]。文章を書くのが好きで1937年にはニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の作文コンテストに応募し、佳作に2度選ばれている[4]。また役者を志し、演劇学校に通っていたのもこの時期である[5]。
1939年、タイムリー・コミックス(後のマーベルコミック)に入社[3]。社長のマーティン・グッドマン(叔父)に編集助手を任されるが、すぐにコミックの原作にも携わるようになる。当時人気だった『キャプテン・アメリカ』は戦前から戦後にかけて脚本を担当している[6][1]。
1942年、兵役で3年間アメリカ陸軍通信隊に所属。軍部に(当時はまだ無名だったが)コミックライターと知られると教育用映画の脚本部[7]に回され、訓練用マニュアル、時事漫画、ポスターを作った[1]。除隊後、同僚のジョー・サイモンなどがDCコミックスに引き抜かれる中、社長に「代わりが見つかるまで編集をやってほしい」と頼まれ[6]、グッドマンが指揮するビジネス戦略の下、当時の流行に合わせて西部劇、SF、戦争物、メロドラマなど、多種多様な作品を量産していった[1]。
1961年、50年代に出した怪奇・ホラー・SFコミックが不振であったことから方向転換を決意し、倒産を覚悟でスーパーヒーローのコミックに限りなく現実的要素をつぎ込んだ『ファンタスティック・フォー』を創刊[8]。これが人気を博し、以降の数年間でマーベルコミックの代表作となる幾多のスーパーヒーローコミックをアーティストのジャック・カービー、スティーヴ・ディッコなどと共に矢継ぎ早に出していく。スタンは「フィクションに現実世界を導入させる」という試みのもとに、舞台を現実の都市としヒーローなのに生活に困窮する様子を描くなど、それまでのコミック[9]とは逆の視点で描き出していく[10]。また、それまでは画一的であった登場人物の台詞や言葉遣いを各人物の性格や特徴に合わせたもの[11]へと変更することで、物語にも弾みが出るようになり、リアリティ溢れる描写はアメリカン・コミックス全体に大きな変革をもたらした[12]。これまで堅苦しい言葉で綴られていた編集後記は砕けた文法に改め、親しみやすい雰囲気を作り、読者との間に出来ていた垣根を取り払った。
1963年、『アイアンマン』、『ドクター・ストレンジ』、『スパイダーマン』、『X-メン』、『アベンジャーズ』の原作を手がける。
1964年、『デアデビル』の原作を手がける。10年間休載していた『キャプテン・アメリカ』を復活させる。
1968年、『ファンタスティック・フォー』の登場人物である『シルバー・サーファー』を単独シリーズ化し、その原作を手がける。これらの作品群の脚本をある程度手がけた後に、脚本業は後続のロイ・トーマスなどに任せ第一線を離れた[1]。出版業に従事するようになり、スポークスマンとして各地でマーベルコミックの宣伝を精力的に行うようになる。
1972年、マーベル・コミックの発行責任者(社長)となるが、主な仕事である財務会議に馴染めず、他に適役がいると判断し、すぐさま辞退した[1]。
1977年、弟ラリー・リーバーと共に『スパイダーマン』の新聞連載を開始する。このコミックは各国の500紙以上の新聞に掲載され、最も成功を収めたアクション・コミックとして認知されている[1]。
1981年、テレビアニメ『スパイダーマン&アメイジング・フレンズ』と『ハルク』の制作総指揮を手がける[1]。
1986年、マーベル・コミックとマーベル・プロダクションがニュー・ワールド・エンターテインメントに買収されたことが契機となり、以前から興味のあった映画やテレビなどの映像分野に活躍の場を移した[1]。
1992年、テレビアニメ『X-メン』の製作総指揮をする。
1994年、テレビアニメ『スパイダーマン』の製作総指揮をする。
1996年、テレビアニメ『超人ハルク』の製作総指揮をする。
1999年、ヒーローコミックをアニメ配信する「スタン・リー・メディア」を立ち上げるが、企画者が南米に資金を持ち逃げし詐欺にあう[13]。
2001年、DCコミックスで『スーパーマン』をはじめとするさまざまなコミックをミニシリーズ[14]としてリメイクした[1]。
2002年、映画『スパイダーマン』の収益配分が支払われないことに不満を感じ、1000万ドルを求めてマーベル・コミックを提訴。2005年に和解(事実上の勝訴)となり、スポークスマンとして週15時間以内の宣伝活動を行う代わりに、あらゆる面で厚遇する旨の契約が執り行われた[15][16]。
2007年、ジュール・ヴェルヌ映画祭で生涯功労賞を受賞[17]。
2011年、これまでの功績が認められ、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの2428番目の殿堂入りを果たす[18](この時点のアメリカ映画の歴代興行収入100位のうち、7つの作品がスタンの原作によるものである[19])。
2018年11月12日朝(米西海岸時間)、米カリフォルニア州ロサンゼルスのシダーズ・サイナイ医療センターに急送され、肺炎により息を引き取った[20][21]。
編集後記では自らをスマイリー・スタンと称しており[1]、インタビューの最中には常に笑顔で接し、ユーモアを交えた巧みな話術を展開する[22]。アニメ『スパイダーマン』(1981年版)のナレーターを自ら担当したり、映画にカメオ出演をするなど目立ちたがりな面がある[1]。ジョン・ジョナ・ジェイムソン[23]のことを「短気で馬鹿で自分を過大評価している。まるで他人から見た私だ」と自らの性格を投影させている。映画『スパイダーマン』の制作では、自らジョン・ジョナ・ジェイムソン役を名乗り出たが、ジェイムソンの年齢設定より高齢であることを理由に却下された[1]。
世界で最も多くの作品が映画化されたコミック作家[24]およびカメオ出演した映画の興行収入が世界一の俳優[25][26]として、ギネス世界記録に認定されている。
手がけたキャラクターの中ではシルバー・サーファーに強い思い入れがあり[27]、女性向けのロマンス・コミックスを手がけることを好む[28]。物忘れが激しいため、キャラクターの名前のイニシャルを『スパイダーマン』のピーター・パーカー(Peter Parker)のように、同じ頭文字にすることが多いが、『アイアンマン』のトニー・スタークなど例外も存在する[1]。
「自分の仕事は所詮雇われ仕事に過ぎない」と、自分が原作したコミックの著作権がすべて会社に帰属することが圧倒的に多いアメリカン・コミックスの現状を皮肉る一方、マーベルコミックで原作を手がけたコミックの扉頁には「スタン・リー・プレゼンツ」と長年に渡って表記されるなど格別の扱いを受けている[29]。
一時期、マーベルコミックのライターはほぼスタンしかおらず、1950年代には多いときで月に82本のコミックの脚本を担当していたこともあった[30]。そうした状況から偶然生み出されたのが「マーベル・メソッド」である[1]。スタンはアーティストたちに仕事を滞りなく与えるため、まず物語のプロットだけを渡し、作画ができ上がった状態で具体的な台詞を入れていった[31]。最初は苦肉の策に過ぎなかったが、でき上がってみると以前よりも作品の質は向上し、この手法を導入してからコミックの売り上げも上昇した。その後もアーティストと脚本家間で物語をフィードバックする目的で用いられ、1970年代にDCコミックスにもマーベル・メソッドは取り入れられることとなった[32]。
第41代アメリカ大統領のジョージ・H・W・ブッシュは「彼の作品は若者達の創造性を伸ばすことに大いに貢献した」と評している[1]。
映画監督のスティーヴン・スピルバーグは「彼と私の創っているものは同じ。ただ私の絵が動くだけ」と明言している[1]。
DCコミックスの発行責任者だったポール・レビッツは「同年代のライターにとって手本となる存在。その功績は大きい」と評している[1]。
翻訳家の光岡三ツ子は「創作の才能と意欲に溢れ、最良のコミックを作るためなら、どんな労力も惜しまずそれを周りにも要求する人物」とし、その仕事ぶりについてはジャック・カービーとの不仲を指して「押しが強くアイディアを人に伝えるのは上手いが、その分周りを省みない」と評している[33]。
実写映画・アニメ化された際に製作総指揮を務めた作品。※印の作品は作品中に本人がカメオ出演したもの。
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