日中戦争 | |
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戦争:日中戦争(1941年12月12日より大東亜戦争の一部[注釈 1]となる) | |
年月日:1937年7月7日から1945年9月9日 | |
場所:中華民国(内蒙古・華北・華中・華南)、イギリス領ビルマ | |
結果:連合国の支援を受けた中華民国の勝利 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 満州国(1932-) 蒙古聯合自治政府(1939-) 中華民国(汪兆銘政権)汪兆銘政権(1940-) |
中華民国 中国共産党(1937年、中華民国陝甘寧辺区政府と改称された) アメリカ合衆国(1941-) イギリス帝国(1941-) ソビエト連邦(1945-) |
指導者・指揮官 | |
香月清司(1937-38) 松井石根(1937-38) 朝香宮鳩彦王(1937-38) 西尾寿造(1939-41) 畑俊六(1941-44) 岡村寧次(1944-45) 張景恵 デムチュクドンロブ(1939-1945) 汪兆銘(1940-1944) 陳公博(1944-1945) |
蒋介石 何応欽 徐永昌 陳誠 李宗仁 閻錫山 毛沢東 朱徳 ジョセフ・スティルウェル(1941-44) クレア・リー・シェンノート(1941-44) アルバート・ウェデマイヤー(1944-45) ルイス・マウントバッテン(1941-45) アレクサンドル・ヴァシレフスキー |
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ウィキクォートに日中戦争に関する引用句集があります。 |
日中戦争(にっちゅうせんそう)は、1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)まで、大日本帝国と中華民国(支那)の間で行われた戦争である。日本政府は、勃発当時は支那事変としたが[1]、1941年12月の対英米蘭との開戦に伴い、支那事変から対英米蘭戦までを大東亜戦争とした[2]。中華民国側は、抗日戦争と呼称している[3]。
日本側では、紛争が勃発した当初は北支事変と称し、1937年9月の第1次近衛内閣の閣議決定で支那事変を正式の呼称とした[4][1]。1941年12月9日に蒋介石の重慶政府が日本に宣戦布告し、事変が戦争にエスカレートしたことを受け、東條内閣は10日の閣議で大東亜戦争の一部に含めることを決定した[2]。また、日華事変、日支事変との表記も見られる。
戦争でなく事変と称されたのは、盧溝橋事件後の本格的な戦闘が行われても、1941年12月に太平洋戦争が勃発するまで両国は宣戦布告をおこなわなかったからである。これは「大日本帝国と中華民国が互いに宣戦布告しておらず公式には戦争状態にない」という状態を、事変の勃発当初から日米戦争の開始までの4年間双方が望んだからで、宣戦布告を行わなかった主な理由はアメリカの中立法の発動による経済制裁を避けたかったからである。そして日本側は事態の早期収拾も狙っていた[4]。 中華民国側は物資輸入に問題が生じることを懸念していた[5]。
現在の中華民国(台湾)や中華人民共和国での呼称は中国抗日戦争もしくは八年抗戦·十四年抗戦である[注釈 2]。英語圏では、1894年〜1895年の日清戦争を「Sino-Japanese War of 1894-95」、「Sino-Japanese War of 1894-1895」、「First Sino-Japanese War ("第一次中日戦争")」などと、1937年〜1945年の日中戦争を「Sino-Japanese War of 1937-45」、「Sino-Japanese War of 1937-1945」、「Second Sino-Japanese War ("第二次中日戦争")」などと呼称する。
日中戦争の期間の代表的な見解は1937年〜1945年までであるが[6]、日本では歴史認識の違いによって先の大戦の呼称が分かれており[7]、日中戦争の位置づけには様々な解釈がある。
中国共産党の公式な見解は1935年の抗日人民宣言から始まり、1937年の盧溝橋事件(七七事変)からとされていたが、2017年1月中国教育省は中国の教科書で使われている「日本の侵略に対する中国人民の8年間の抗戦」という表現を、日中戦争の始まりを1931年の「柳条湖事件」まで6年遡らせて「14年間の抗戦」に改めると発表した[8]。なお、満州事変・柳条湖事件は、関東軍の緻密かつ入念な事前の計画に基づくものである。これに対し、盧溝橋事件は偶然の発砲が発端となり、また、松井=秦徳純協定により盧溝橋事件はいったん収拾した。しかし、関東軍の北支分離工作などの日本側の行為に反発した、中国共産党や蒋介石の中国軍による日本軍・日本人居留民に対する攻撃により、北支事変の戦闘は本格化した。したがって、日中戦争の始期の捉え方は、日中戦争の歴史的な評価にも重要な影響を与えうることに留意しなければならない。
日清・日露戦争から日中戦争を経て、太平洋戦争に至る経緯についての時期区分としては次のようなものがある。
江口圭一は日本が列強の一員となる日露戦争から太平洋戦争直前までの期間を三つの時期に区分している[9]。
本多勝一は日清戦争から太平洋戦争までを一体として「50年戦争」と呼んでいる[10][11]。
猪木正道は近代化に成功した日本が軍国主義化をすすめた展開を日清戦争から日中戦争までとみなしている[12]。
このほか、林房雄はペリー来航から大東亜戦争(太平洋戦争)までをアジアに侵略してきた白人勢力に対する日本の反撃として一体のものとする「東亜100年戦争」という見方をしている[13][11]。
1931年の満州事変から1945年のポツダム宣言受諾(日本の降伏)までを一連とみなす十五年戦争という概念がある。江口圭一は著書『十五年戦争小史』において次のように区分している[14]。
(さらに1933年の塘沽協定を境に狭義の満州事変と華北分離という二つの小段階に区分している。)
また、満州事変から太平洋戦争下の中国戦線を含めて広義の日中戦争とし、盧溝橋事件から太平洋戦争開始までを狭義の日中戦争としている[14]。
ただし、満州事変から盧溝橋事件までの4年間は大規模な軍事行動が行われていないことや、満州事変はそれまでのヴェルサイユ体制の終わりであって、満州事変から日中戦争を経て太平洋戦争に至る経緯を一体とみなすことには批判もある[17][18]。
19世紀後半、帝国主義の列強はアフリカやアジアの植民地の拡大を競っており[19]、中国、朝鮮、日本の東アジア諸国は、ヨーロッパ列強、ロシア、アメリカ合衆国から開国を迫られるようになった[20]。
1840年、清のアヘン貿易取締りに反発したイギリス政府[注釈 3]は清に宣戦布告(アヘン戦争)[20]。清に勝利したイギリスは中国に賠償金と香港割譲、上海などの開港を要求、不平等条約を締結。これに米仏も便乗する[21]。その後、清では太平天国の乱などが起きる一方、1860年代から洋務運動による近代化が図られた[22]。清の敗北と半植民地化という情報は、日本でも衝撃をもって迎えられ、日本はペリー来航を経て明治維新が起き、近代化に成功、軍国大国となるが第二次大戦で敗北した[20]。一方、清は日露戦争後、満州族から中華民族国家へと変貌したが、自力で近代化できないまま第二次世界大戦終結まで日本に侵略をうけた[20]。自力で近代化できなかった大韓帝国はやがて日本に併合された[20]。
ロシアは1891年にシベリア鉄道建設などで中国進出を開始し、ロシア南下は日本にとって脅威となった[19]。イギリスもロシアの南下を警戒する[19](のち日英同盟締結[23])。ロシアはウラジオストク基地保護のために朝鮮半島制圧を意図した[19]。1894年、李氏朝鮮は東学党の乱の鎮圧に失敗し、清と日本に救援を求めた[19]。日本は清に朝鮮半島の共同統治を申し出るが、清が拒絶し、日清戦争が勃発した[19]。日本は完勝し、講和条約では遼東半島、台湾を割譲した[20]。
清の敗北は洋務運動の失敗を意味し、以降、変法運動、革命運動が展開した[22]。康有為らは明治維新をモデルとして立憲君主制に基づく改革を求める上奏を行う[22]。1890年代、孫文らは共和制革命を唱え、日本、アメリカなどで活動した[注釈 4]。他方、日本では清の敗北は中国を侮蔑する風潮となった[20]。
日清戦争での遼東半島割譲に対してロシア、フランス、ドイツが放棄を要求する三国干渉が起こり、日本は3500万両での還付をもって放棄した[20]。 1898年にドイツが山東半島の膠州湾、ロシアが遼東半島の旅順・大連、イギリスが九龍半島・威海衛、フランスが広州湾を租借地とした(瓜分の危機)
清の敗退によって中国で「扶清滅洋」を叫ぶ宗教的秘密結社義和拳教が、排外主義の運動を展開した(義和団の乱、北清事変[24])[23]。北京の公使館員や居留民保護のため8ヶ国連合軍が北京に進出し、日本軍が中でも最大の兵力8000人を投入した[23]。北京は連合軍に占領され、北京議定書によって清は賠償金と、北京周辺の護衛は外国部隊が任務にあたることになった[23]。日本は北京と天津に清国駐屯軍(後に支那駐屯軍)を設置した[25][26][注釈 5]。 これはのちの日中戦争初期の主力部隊となる[24]。またロシアは満州を事実上占領する
1902年の日英同盟によってロシアは満州から撤兵を開始するが、日本を軽視し全兵力の撤兵は行わなかった[27]。日本では対ロ強硬論が噴出し、また朝鮮半島、満州の利益に関する日露外交交渉は決裂、1904年には日露戦争が勃発する[27]。
勝利した日本は1905年ポーツマス条約によって遼東半島(関東州)の租借権、東清鉄道の長春〜大連の支線、朝鮮半島の監督権を得た[28]。鉄道守備隊はのちに関東軍となった[29]。講和後の10月から満州軍総司令官下に関東総督府を設置し、軍政を敷いた[29]。これに対して清が抗議、また日本の門戸閉鎖に対して、英米が反発し[30]、1906年3月に満州の門戸開放を迫ったため、日本は満州開放の方針を確認、関東総督府を関東都督府として改組した[28]。1906年11月には国営でなく民間企業で日本最大のコンツェルンとして南満州鉄道株式会社を設立、以降、南満州鉄道を柱とする満州経営権益は日本の重大な課題となった[28]。
日英同盟は攻守同盟へと強化され、日本の朝鮮半島支配とイギリスのインド支配を相互承認した[28]。またアメリカとも桂・タフト協定で日本の朝鮮半島支配権とアメリカのフィリピン支配権を相互に確認した[28]。フランスも同盟国ロシアの弱体化をうけて日本に接近、1907年、日仏協約を締結[28]。ロシアも国内での革命運動の激化などを背景に日本に接近し、1907年日露協約(第二次日露協商)を締結し、日本が南満州、ロシアが北満州を勢力範囲とし、日本の朝鮮半島支配とロシアの外蒙古の「特殊利益」を相互承認した[28][25]。日本は列強の承認下、1910年韓国併合にいたった[28]。満州は「10万の生霊を20億の国帑」で購われた「特殊地域」と日本はみなした[31]
イギリスはフランス、ロシア、日本によるドイツ包囲網を形成したが、日本国内では親英路線と親露路線とが対立した[28]。
日米関係は満州権益をめぐって対立、また日系移民排斥問題などが発生し、悪化していたが[28]、1907年の日米紳士協定、1908年の高平・ルート協定によって緊張を宥和させ、1911年の日米通商航海条約によって日本は関税自主権を獲得し、日本は従属的な立場を解消させた[28]。
日本は満州進出後、1932年には満州国を建国、満州事変をへてのちの日中全面戦争にいたる[24]。
日露戦争での日本の勝利は、アジアの小国が大国を倒したことで世界中に衝撃をもたらし、中国の孫文やベトナムからも民族独立をめざす革命家が来日する[32]。1905年(明治38年)8月、孫文は東京で宮崎滔天らの協力を得て中国同盟会を結成[注釈 6][32]。1911年、清政府による鉄道国有化政策に地方省が反対し各地で暴動が発生、10月に孫文の影響を受けた革命軍が武昌と漢陽を武力制圧し、黎元洪を都督として中華民国軍政府が成立を宣言する[32]。清は革命軍の制圧に失敗し、中国15省が次々と独立を宣言した[32]。1911年12月29日、上海で孫文が中華民国大総統に選出され、1912年2月12日溥儀が退位し、清国は滅亡した[32]。
日本の西園寺内閣は清と革命軍の妥協政策をイギリスに提案したが、イギリスは袁世凱と提携し、共和制中華民国を成立させた[33]。他方、日本陸軍は中国革命を進出の機会としてとらえ、1912年1月、居留民保護として漢口に日本陸軍中清派遣隊(後に中支那派遣隊)を駐屯させ(1922年7月まで駐屯)た[25]。歩兵四個中隊、7000人規模で北京天津の支那駐屯軍よりも大きいものであった[25]。この時ロシア、イギリスも派兵した[25]。
さらに1912年2月には第一次満蒙独立運動(中国語版)を開始するが[32][24]、イギリスに主導権をとられたことで失敗に終わった[33]。日本陸軍は日英同盟への不信をつのらせ、他方、外務省と日本海軍は日英同盟を重視し、対立した[33]。
1912年8月25日 には孫文を代表とし、総理を宋教仁とする国民党が結成、翌1913年3月の国会議員選挙では国民党が870議席の内401議席を獲得した[34]。一方、袁世凱はアメリカの政治学者フランク・グッドナウ(英語版)による意見を取り入れ立憲君主制を目指す権力拡大を計り、同3月に宋教仁を暗殺し、国民党の弾圧をはじめたため、孫文らは袁打倒の第二革命を開始[34]。8月5日には中国軍が、支那駐屯軍の川崎享一大尉を連行する兗州事件が発生[35]。8月8日に孫文は、日本に亡命。8月11日には中国軍が、中支派遣隊西村彦馬少尉を拉致陵辱された漢口事件が発生[35][25]。9月1日には中国北軍と南軍が南京で戦闘中、北軍の張勲が在留日本人3人を殺害、日本人商店から略奪をする(南京事件)[35]。同年10月10日、袁世凱が、大総統に就任する。1914年に孫文は中華革命党を組織するが、袁は議会解散を強行した[34]。
1914年(大正3年) 7月28日、第一次世界大戦が勃発し、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟とイギリス・フランス・ロシアの三国協商連合国とが開戦した[33]。日本は日英同盟によって参戦、日英軍は、膠州湾岸・青島のドイツ軍に攻撃、 11月に青島ドイツ軍は降伏する[33][25]。なお袁の中華民国政府は中立を宣言。
1915年1月18日、日本はドイツ権益の移譲を含む対支21ヶ条要求を北京政府に要求[33]。袁は諸外国に交渉して不成立を目論むが、 4月26日に日本が対支要求を19ヶ条に修正、さらに5月7日13ヶ条に修正した「最後通告文」を渡し、5月9日に袁世凱が最後通告文を承認する[33][25]。日本の要求に対して中国各地で反対運動や暴動がおこった[25]。
袁世凱は同1915年12月12日、共和制を廃止、帝政を復活させ、袁世凱自らが中華帝国大皇帝に即位する(洪憲帝制)と、蔡鍔らは反袁・反帝政の護国戦争(第三革命)を起こす[34]。袁が1916年6月6日 に病死すると、黎元洪中華民国大総統と段祺瑞国務総理が国内統一を図るが府院の争いで対立。1917年張勲復辟の後、馮国璋が総統となると段は国会を解散し、新国会を設置しようとした。張勲復辟事件の際にも日本軍は北京に増援した[25]。9月10日 孫文が広州で中華民国軍(広東軍政府)樹立を宣言。
1916年には日本陸軍が第二次満蒙独立運動を起こしたが失敗した[33]。同1916年7月、第三回日露協約によって日露同盟が成立、日露同盟は日米対立を背景に以降、日本の外交方針の中軸となった[33]。
1917年に展開したロシア革命によってロシアとドイツが休戦すると連合国は翌1918年からシベリア出兵を実施、同1918年11月にドイツ革命でドイツ帝国が崩壊し、第一次世界大戦は終結した。またロシア革命によって日露同盟も崩壊した[33]。
大戦後1919年のパリ講和会議で、山東問題について日本は対支21ヶ条要求を中国が受諾したことを根拠とし、また中国は、対支21ヶ条要求は強要されたもので、山東は中国に復帰すると抗弁した[36]。イギリスとフランスは日本を支持し、中国に同情的だったアメリカに対して日本は要求が拒否されるなら国際連盟規約には調印しないと主張し、アメリカは譲歩した[36]。パリ講和会議、ヴェルサイユ条約によって、日本は山東省、南洋諸島の統治権を得て、さらに翌年発足した国際連盟の常任理事国となり、世界五大国のひとつとなった[36]。
しかし、第一次世界大戦後、ロシア帝国、ドイツ帝国、オーストリアハンガリー帝国、トルコ帝国の消滅によって全世界で民族自決運動が展開、朝鮮でも1919年から独立運動が展開した[36]。また、中国でも日本への山東省譲渡に対して中国全土で「反日愛国運動」の五・四運動が盛り上がり、中国政府はヴェルサイユ条約調印を拒否した[36]。
1918年からのシベリア出兵によって日本軍は7万人の兵力を投下し、反革命軍を支援、東部シベリアを占領したが、ボルシェビキ軍の反撃で損害をこうむる[36]。1920年1月には米軍が撤兵し、9月までに各国の干渉軍は撤退する[36]。同年3月の尼港事件に対して日本軍は掃蕩作戦を行い、北サハリン(樺太)を占領した[36]。
しかし、大戦の間隙をついて膨張に成功した日本はアメリカから反発を受け、1921年、アメリカは軍備制限と太平洋極東問題を協議するワシントン会議を開催、1922年には主力艦保有率を米英5、日本3、フランスイタリア1.67とするワシントン海軍軍縮条約が締結され、ワシントン体制が成立する[36]。日英同盟はイギリスにとってはロシアとドイツ帝国が消滅したため無用となり、また英米関係にも好ましくないので解消された(日本は存続を求めたがイギリスは拒否した)[36]。太平洋諸島の非要塞化などを取り決めた米英日仏の四カ国条約、中国問題については中国の領土保全、門戸開放、新たな勢力範囲設定を禁止する九カ国条約を締結し、日本は山東還付条約で山東省、山東鉄道を中国に還付することで解決し[36]、また山東半島や漢口の駐屯兵も自主的に撤兵した[25]。
ワシントン体制は、ソ連と連動する中国ナショナリズムに対して、列強が権益を存続するための中国共同支配体制であった[36]。日本は当時、軍事三大国であったが経済的には英米独仏と比較すると依然弱小国であり、外債、資源、貿易は米英依存であったため、対米英協調路線をとるほかなかった[36]。
この時代、中国全土は分裂し軍閥割拠時代となった[24]。 1919年の五・四運動以降、中国では共産主義思想への共感が拡大していく[注釈 7]。1920年にはコミンテルンのボイチンスキーが北京に派遣され[37]、1921年には中国共産党が結成される。
1920年7月14日の安直戦争によって段祺瑞の政権は崩壊した。天津攻撃をおそれた日本は鉄道沿線各地に軍兵を配置した[25]。10月2日には馬賊団が、琿春の日本領事館を全焼させ、日本人13人を殺害、数人を拉致する。 1920年11月、張作霖の使者が日本を訪問し、支援を求める。
1922年4月 、孫文が北伐を開始する。4月28日 には第一次奉直戦争が起こる。10月25日には日本軍が、シベリア撤兵する。1923年6月1日、長沙事件。
1923年にはA.A.ヨッフェとミハイル・ボロディンが孫文と接触し、孫文はソ連に武器援助を要求した[37]。孫文は野合政党からボルシェビキをモデルとした革命政党への脱皮を決断した[38]。1924年には北京のソ連大使館にソ連軍事センターが設置され、中国の団体への武器供与を監督した[37]。1924年1月20日、軍閥および北京政府に対抗する国共合作が成立[39]。 孫文の広東政府はコミンテルン工作員ミハイル・ボロディンを最高顧問に迎え、ソ連の支援で[37]国民革命軍を組織し、と1924年6月16日に軍官学校を設立した[注釈 8]。1924年5月には反日ストライキ暴動事件発生[要出典]。1924年7月1日、蒋介石と汪兆銘等による広東国民政府が成立。ソ連はボロディンら工作員を派遣し広東などで反英運動を展開し、1925年7月には蒋介石は東シベリア赤軍のブルーシェル最高司令官[誰?]にイギリスとの武力戦争のためにロシア人顧問が必要であると伝えた[37]。
1924年9月18日、第二次奉天戦争が起こると、日本は内政不干渉を表明する一方、日本陸軍による張作霖への支援は続け、1925年に郭松齢が奉天に迫ると、満州出兵を行い、張作霖への軍事支援を実施した[39]。 1925年5月30日、上海で数万の反日デモが発生、その後全市規模のストライキがコミンテルンと中国共産党の陳独秀指揮のもとで行われた[40]。デモに対して上海共同租界当局は鎮圧にあたって発砲、13人が死亡する五・三〇事件が発生、以後、大衆運動の矛先は上海共同租界の代表であるイギリスに向けられ、香港などでも反英運動が展開した[41]。
その後もソ連は多額の資金を提供し、大青年反帝国主義同盟、中国プロレタリアート作家同盟、中国社会科学作家同盟などの組織が設立されていった[40]。
翌1926年7月、蒋介石は孫文を継承して、軍閥・北京政府撲滅を目指し北伐を開始する[39]。
ソ連とボロディングループの指導のもと中国共産党は党員を組織し、共産主義者を拡大させていったが、蒋介石ら国民党政府は共産党の権力奪取計画を察知し、1927年3月には共産党員を追放した[40]。
翌1927年3月24日、南京に入城した蒋介石北伐軍の一部が反帝国主義を叫びながら外国領事館や居留地で暴行陵辱を行った (南京事件)[42]。米英軍は艦砲射撃を開始、陸戦隊を上陸させて居留民の保護を図った[42]。幣原外交の日本は領事館を襲撃され、死者も出たが、自重し、イギリスと蒋介石の説得工作をおこなった[42]。蒋介石は事態解決および過激派の粛清を行うと日本に伝えた[42]。4月12日、南京の国民革命軍総指令・蒋介石は、上海に戒厳令を布告し、南京国民政府を組織、共産主義者とみなされた人々が処刑された(上海クーデター)[39]。上海クーデターについては日本政府・幣原外相らによる蒋介石への反共工作に対して蒋介石は日本側の期待に答えたとする見方もある[39]。
北伐は一時停滞、国民政府は蒋介石の南京国民政府と汪兆銘等の武漢国民政府に分裂する。
英国は、ソ連のブハーリンらが広東政府を援助し、ストライキなどの労働運動を指揮していたとして1927年5月12日、ロンドンのソ連ハウス(アルコス株式会社、ソ連貿易代表団)を強制捜索、ソ連が中国など諸外国で工作をおこなっている証拠書類が押収された(アルコス事件)[37]。イギリスは南京事件はコミンテルンの指揮の下に発動されたとして関係先を捜索、5月26日、ソ連と断交した
蒋介石の北伐軍が山東省に接近するにしたがい、日本は1927年 5月28日、山東省の日本権益と2万人の日本人居留民の保護のため、山東省へ軍を派遣する山東出兵を決定。日本と関東州の大連・天津から南下した日本軍は治安維持活動を開始。しかし北伐軍は張作霖に敗北し山東省に入ることなく撤退したため、日本軍もすぐに撤退。
同1927年7月、漢口政府も蒋介石にならって共産党員を追放した[40]。8月19日には武漢政府も容共政策放棄を声明し、南京国民政府に合流、蒋介石の権力は強固なものとなった。 9月 、田中義一首相と蒋介石が会談し北伐・対共産主義戦に対する支援と日本の満州国での権益を認める密約を結ぶ。蒋介石は上海での記者会見で「われわれは、満州における日本の政治的、経済的な利益を無視し得ない。また、日露戦争における日本国民の驚くべき精神の発揚を認識している。孫先生(孫文)もこれを認めていたし、満州における日本の特殊的な地位に対し、考慮を払うことを保証していた」と語った[43]。
10月には中国共産党が江西省に革命根拠地を創設。1927年12月11日には中国共産党が武装蜂起で広州を制圧、ソビエト政権を樹立するが、その後中国地方軍に鎮圧され、共産党員と7人のロシア人は処刑された(広州コミューン)[40]。蒋介石はソ連に国交断絶を宣言した[44]。
翌1928年(昭和3年)3月、形勢を立て直した蒋介石の北伐軍は広州を出発し山東省に接近、4月末に10万人の北伐軍が市内に突入したため、日本軍も4月20日に再び出兵、6千人が山東省に展開した(第二次山東出兵) [45]。これは第一次出兵と異なり、条約的根拠のないもので中国の反日世論が過熱した[45]。
省内で日本軍と北伐軍が対峙し、睨み合いながらも当初は両軍ともに規律が保たれていた。しかし、北伐軍兵士が日本人の家を略奪したため、日本軍と銃撃戦が起こった。さらに蒋介石に「日本軍が中国人を虐殺している」との出自不明の情報が入り、5月3日、激怒した蒋介石が日本人12名を殺害させる済南事件が発生した。
5月8日、日本軍は第三次山東出兵を行う。市内に2千人いる日本人保護のために済南城を攻撃、北伐軍は城外へ脱出し北伐を再開した為、5月11日には済南全域を占領した(済南事変)[45]。済南事変によって中国は反英運動から反日運動へと矛先を変え、同時に英米も日本に批判的になった[45]。現地軍が事件を拡大させ、「暴支膺懲」が日本の世論で叫ばれるというパターンがここで生まれたため、満州事変の予行であったともされる[45]。
また同1928年内には、日本守備隊10数名が中国軍によって不法拘留される事件 などが数件起こった(日本兵不法拘留事件)。1928年6月4日には、蒋介石に破れ北京から満洲に帰国途中の北方軍閥の張作霖が爆殺される張作霖爆殺事件が発生。6月9日 には国民党軍の北京入城によって「北伐完了」が宣布、10月8日 には中華民国南京国民政府が樹立。同年12月29日には張作霖の子の張学良が国民政府に帰順し、一応の全国統一をみた。
中華民国は東北地方で新たな鉄道開発を行っていたが、日本の満鉄の路線と交差する形で延長されていた[要出典]。満州善後条約で日本が清朝と結んでいた関東州の権益について、中華民国側と解釈の相違が露呈しはじめる。張学良は、条約にも父張作霖が関東軍と結んだ地域に関する契約にも違反しないと主張し、開発は進められた[46]。またこの頃、ドイツの退役将校マックス・バウアー大佐が蒋介石の軍事顧問となり、軍事顧問団を形成した[47]。これ以降、ドイツの最新兵器が中華民国にもたらされる(中独合作を参照)。翌1929年(昭和4年)2月 に李宗仁の乱が起こる。4月には山東全域から日本軍が撤退した。5月16日 には馮玉祥軍が挙兵を宣言する。1929年6月、日本は国民政府を正式に承認する[44]。このときの協定文書で蒋介石は「支那」でなく「中華民国」呼称にするよう要求、日本も承諾した[44]。
1929年7月、ソ連が満州に侵攻し(中東路事件)、中華民国軍は撃破される(中ソ紛争、奉ソ戦争)[44]。蒋介石は全国に徹底抗戦を通電する。10月にはソ連軍侵攻に合わせて中国共産党が行動開始する。12月22日に中国側は敗北しハバロフスク議定書が結ばれ、中東鉄道はソ連の支配下に置かれソ連の影響力が強まった[44]。中華民国政府がソビエト連邦と交戦に力を注いでいるうちに中国共産党は中国各地で盛んに活動を行った。中国兵による日本兵射殺事件も発生している。
1929年10月、世界恐慌がはじまる。
南京国民政府でも抗日世論が高まっていたが、蒋は日本との国力の差を考慮した上で国内統一による国力増強を最優先目標とし、また反共主義の立場から、抗日政策より中国共産党との戦いの方を優先した。 1930年(昭和5年)2月 - 中国共産軍が瑞金に江西省ソビエトを樹立、5月、反蒋介石連合運動との内戦中原戦争が起こり、双方100万の軍勢で、30万の死傷者が出た[48]。
1930年7月27日、中原戦争の隙をねらって中国共産党軍が1万の兵力で長沙を制圧、湖南省ソビエト政府樹立を宣言した[49]。8月5日、中国中央軍が、紅軍から長沙を奪回、8月15日には閻馮軍から済南を奪回する。9月18日、張学良が蒋介石支持の態度表明し、東北軍の関内進駐によって蒋介石軍が勝利し、蒋介石の勢力は強化された[48]。
蒋介石は共産党を「共匪」と呼び、1930年12月の第一次囲剿(いそう)作戦から、5次にわたる大規模な掃討戦(掃共戦)を展開した[49]。1931年4月から5月まで第二次囲剿作戦、7月から9月まで第三次囲剿作戦を行うが、いずれも失敗した[49]。満州事変勃発のために、国民党軍が共産党軍に寝返った寧都蜂起も発生した[49]。
毛沢東ら中国共産党はソ連支援の下、農村を中心として支配領域を広げていき1931年11月7日には江西省に〔D〕「中華ソビエト共和国臨時政府」(瑞金政府)を樹立するまでに勢力を拡大した[49]。
1931年9月18日、南満州鉄道が爆破されたとして関東軍が奉天、南満州を占領する(満州事変)[29]。9月21日、中華民国は国際連盟に提訴、日本は自衛のためと主張し、国際連盟の介入を批判し、日中両国の直接交渉で解決すべきことと述べた[31]。この時点で国際連盟理事会は日本には宥和的で中華民国には冷淡であったが、10月以降の事態拡大によって態度は変化していった[31]。11月8日、天津で日中軍衝突、奉天特務機関長の土肥原賢二が、反張学良の馮玉祥と連絡し、廃帝溥儀を脱出させ、満洲入りさせる。11月19日日本軍、チチハル占領。12月28日には錦州侵攻する。犬養首相が、張学良に錦州からの撤兵を要請し、張学良が了承する。翌1932年(昭和7年)1月3日、錦州占領。 1932年1月28日 には日本海軍と中華民国軍が衝突する第一次上海事変が勃発し、1932年3月1日 には中華民国軍、上海から撤退する。同日、満洲国が中華民国から独立して建国宣言をした[29]。 猪木正道によると、満州国の建国は九カ国条約、不戦条約に違反するものであったとされている[50]。 1928年(昭和3年)当時は、日本政府は奉天派の北京政府を中華民国(支那共和国)の正統政府としていたため、蒋介石が中華民国として不戦条約に加盟申請しアメリカが受理し日本に通告してきても日本政府は拘束されないと考えていた[51]。 1932年3月4日、省都承徳を占領、4月には万里の長城線を確保し、こうして万里の長城が満州国と中華民国の境界線になった[52]。
1932年5月5日、上海停戦協定で日中両軍が上海から撤退する。1932年5月15日、五・一五事件が起きる。
1933年(昭和8年)1月1日 - 山海関事件。 1933年2月23日 - 日本軍、熱河省侵攻。昭和天皇は熱河作戦について万里の長城線(長城線)を超えて南下することを禁じた[52]。しかし、5月3日、武藤信義関東軍司令官は南下を命じ、天皇は激怒した[52]。関東軍は玉田、密雲など占領、北平(北京)に迫り、北京はパニック状態になった[52]。ただし関東軍は北京攻略まで行う意図はなかった[52]。蒋介石は安内攘外、共産党を先に平定してそのあと日本を攘(はら)うという方針を変えなかった[52]。1933年5月31日、日中停戦会議の結果、塘沽協定が結ばれ停戦する[52]。この協定で中国軍は蘆台〜通州〜延慶のライン以南まで撤退し、このラインに侵入することを禁じられ、また長城以南に非武装地帯が設定され、中国国民党政府は満州国と長城線の国境を事実上認めた[52]。 関東軍は華北工作の主導権を握った[53]。
中華民国側は日本軍の軍事行動を侵略行為として国際連盟に提訴し、1932年3月リットン調査団が派遣され、10月2日に日本の主張を認めない報告を発表する[52]。1933年2月24日、国連はリットン報告を採択、日本は3月27日に国際連盟からの脱退を通告した[52](同年ドイツも脱退)。
1934年(昭和9年)3月1日 - 溥儀が満洲国皇帝に即位(康徳帝)。3月 - 西南旅行の途次、南京に立ち寄った松井石根大将と蒋介石が対共政策・北伐について会談。
1934年4月、外務次官重光葵発案の支那政策が広田外相、天羽英二発表(天羽声明)によってされ、満州国独立によって日中の面子が保たれ、東亜における平和秩序は諸外国の干渉によるのでなく日中二国間で協議すべきこととし、これに対して中華民国と列国は異議を表明した[54]。
1934年12月、日本はワシントン海軍軍縮条約廃棄をアメリカへ通告する。
1933年10月16日、蒋介石は第五次包囲討(囲剿)作戦を開始、兵力80万で共産軍15万を攻撃した[55]。国民党軍は翌1934年4月28日、共産軍から広昌を、5月16日には建寧を8月31日には駅前を、10月には石城、興国を奪回し、共産党は壊滅寸前の状態にまで追い込んだ[55]。10月14日から中国共産党の長征がはじまった。
1935年(昭和10年)1月、蒋介石は『外交評論』に「日本人は我々を敵とすることはできず、一方、中国人も日本人と手を携えなければならない」とし、日本に対して領土侵略でなく経済提携など[注釈 9]を図るべきと論じ、対日関係打開を探った[56]。 1月22日に広田外相が「不侵略」を表明したことに対して蒋介石は1月29日以降、日本政府要人と会談し、王寵恵国際司法裁判所判事も訪日し、岡田首相らと会談し、双方とも平和的処理を了承した[56]。1935年3月1日 - 中国、党宣伝部長が「排日行動を停止すべし」と表明。
他方、関東軍は1935年3月30日の対支政策では「北シナ政権を絶対服従に導く」と確認した[57]。土肥原賢二らは5月2日に起きた天津の親日新聞社長暗殺事件をうけて国民党政府機関の閉鎖、河北省からの中国軍撤退、排日の禁止などを要求した6月10日の梅津・何応欽協定を締結する[24][55]。華北分離工作は土肥原賢二らが主導した[57]。また、6月5日に関東軍特務機関員が宋哲元の国民党29軍に拘留されたこと[55]に対して、6月27日、大日本帝国と中国は土肥原・秦徳純協定をむすび、これよって国民党機関の撤退を要求し、チャハル省を大日本帝国の勢力下に置いた[58][55]。 1935年の北支は国民政府による搾取や重税から北支軍閥や市民の中で不満が高まる[59]と共に満州の急速な発展を目の当りにし、蒋介石の影響力は後退、1935年6月には白堅武が豊台事変を起こし親日満政権を樹立を図ろうとクーデターを起こしたが失敗、10月には国民党の増税に反発し農民が蒋政権に反発し[60][61]自治要求を求め香河事件が発生するなど河北省・山東省・山西省などで民衆の政治・経済的不満が高まり、自治運動が高まってきていた[62][63]。1935年8月には、満州から天津行きの列車が反日組織に襲撃され、20人の乗客が殺害された[64]。
1935年8月の第七回コミンテルン大会でディミトーロフは日本帝国主義と国民党政府の裏切りを非難し、中国ソビエト地区だけが中国の奴隷化を防ぎ、中国人民を解放することができると演説し、同内容の決議が採択された[65]。
8月1日、中国共産党がパリで中国が滅亡に瀕し、中国人民は奴隷となったと抗日救国の八・一宣言を出し、中国の若者らに影響を与え、上海、北平の学生運動によって支持勢力を拡大した[56]。
1935年10月4日、広田外相は、1)中国の排日言動の取締、欧米依存からの脱却、2)満州国の事実上黙認、3)赤化(共産主義)勢力排除への協力の三箇条、広田三原則を蒋介石政府に伝えた[56]。11月20日の南京会談では蒋介石はこの三原則には同意するが、華北で問題がおこれば交渉できないと答えた[66]。
1935年10月19日には、毛沢東が長征を終了する[56]。1935年11月9日、上海で中山秀雄一等水兵が通りで射殺された(中山水兵射殺事件)[64][67]。日本海軍と上海領事館は日本人社会の不安増幅を憂慮し、この殺人事件の報道を半年間差し控えた[67]。この事件の犯人のテロリスト組織ヤン・ウェンタオは国際租界外国警察隊によって翌1936年5月に逮捕された[67]。
1935年11月、中華民国政府では英国支援で幣制改革が行われ、銀本位制・通貨管理制を導入し現金回収が行われたがこの時、北支将領は現金の南送を拒否するなど中央からの離脱傾向にあった。
1935年11月25日、大日本帝国の支援の下殷汝耕が 〔E〕冀東防共自治委員会を非武装地帯に組織し自治宣言をし、支那駐屯軍支配下においた[24]。12月9日には日本侵略反対をスローガンにした学生デモが展開した[66]。1935年12月17日、天津の多田陸軍中将の自宅に爆弾が投げ入れられた[64]。
蒋介石は1935年12月18日に宋哲元を委員長とする親日政権を装った特別機関冀察政務委員会を設立させた[58][66]。関東軍の華北工作は冀東防共自治政府のみにとどまり、華北の自治運動工作は失敗した[66]。
1935年12月26日、上海の日本海軍公館に爆弾が投擲された[64]。
1936年(昭和11年)1月2日、天津のタークーで日本人商店2軒が中国正規軍に略奪された[64]。 1月13日 - 日本、第一次北支処理要綱を閣議決定。1月21日、仙頭で日本人警官が中国人に射殺された[64]。 2月26日、大日本帝国で二・二六事件によって広田内閣となる。
2月17日、突然、中共軍が山西省内に侵入し3分の1を占領、国民革命軍中央軍7個師、商震軍2個師が派遣されると、5月5日に回師宣言(撤退)をして引き揚げた[68]。3月12日にはソ連が外蒙古と相互援助協定を締結、外蒙古との軍事同盟を固めた[68]。日本はこうした状況に対して5月、支那駐屯軍を2000から5000に増強した[68]。また4月9日、武漢東北軍を率いた張学良は、東北軍が中国共産軍よりも対日戦を望んでいたことを背景に周恩来と秘密会談を行い、中国内戦の停止に合意した[69]。 1936年5月16日、コミンテルン上海本部から、天津の共産党細胞が大日本帝国の密輸活動を暴露し反日感情をかき立て、また夏休みに学生を農村に派遣し農民に工作すること、日本製品はすべて密輸であると宣伝し、反日運動とボイコットを展開するよう指令を受けたリャザノフスキーが北京に向かう[65]。5月中に日本は支那駐屯軍を5774兵へと増強し、支那駐屯第一・第二聯隊を設置、常駐体制となった[25]。これは北京議定書の枠組み(国際協調)がすでに崩壊していたことを示すものだった[25]。 1936年6月7日 - 両広事変。1936年6月19日、山東省防東で日本人が中国人に射殺された[64]。6月26日、北京近くで中国兵が日本兵を襲撃、さらに日本陸軍大尉が斬りつけられた[64]。
7月10日、萱生事件。東京三井物産社員[要出典]萱生鑛作が上海で射殺された[64]。
7月22日、天津で中国警備兵が、日本領事館警察を銃撃し、殺害された[64]。1936年8月7日 - 広田内閣は、国策の基準(五相会議決定)を定め、大陸と南方への進出、ソ連・米国・英国に対する軍備と経済の充実を方針とし、8月11日、第二次北支処理要綱を制定。 1936年8月23日、河北公共治安部隊兵士が日本人学校を襲撃、日本人教師を拉致し暴行した[64]。翌日の1936年8月24日に1万人の中国人デモ隊に日本人新聞記者2名が殺害される成都事件が発生する[64]。
大日本帝国は成都事件の処理交渉で、排日取締、華北問題、共同防共などを求めたが、中国側は日本の軍事行動の停止などを条件にし、交渉は難航したが[70]、8月26日に国民政府は日本人保護を命じた[64]。しかしその後も在中日本人への襲撃はやむことなく、9月3日の北海事件では日本人1名が死亡、
9月3日広東省パクホイで薬剤師が19路軍に斬殺された[64]。
9月19日には漢口で日本領事館の吉岡巡査が暗殺された[64]。9月23日には上海で日本人水兵4人が襲われ死傷した[64][67]。9月26日、湖南省の日本の汽船会社が放火された[64]。9月29日、長沙の日本領事館に爆弾が投擲[64]。10月8日の川越大使と蒋介石との会談でも事態は打開されず、交渉はその後も防共協定締結問題を中心に続けられたが、11月の独立を目指す内蒙古軍とそれを支援する関東軍に、国民革命軍が勝利した綏遠事件によって交渉は決裂した[70]。11月11日、日本人船員が上海で射殺された[64]。
1936年(昭和11年)12月7日、張学良は蒋介石に対し、国共内戦を停止し対日戦に向かうことが救国となると勧告したが、蒋は張学良は共産党に惑わされていると一喝した[69]。12月12日、張学良の親衛隊が宿泊先を襲撃して蒋介石を拘束拉致した。西安に拘禁された蒋介石は国民党と共産党の再合作を迫られた[69]。蒋介石は共産党周恩来らとの会談で反共姿勢から抗日姿勢への転換を最終的には受諾し、南京に12月26日に帰還した[69]。この西安事件はソ連・コミンテルンからの指令で実施された[65]。
1937年(昭和12年)2月2日、第二次西安事変。2月2日、大日本帝国で広田内閣から、林内閣へ。佐藤尚武外相は、対中優越観念の放棄や中華民国への軍事的威嚇方針をやめ、平和交渉に移るよう外交方針を変更した[71]。陸軍でも参謀本部戦争指導課長の石原莞爾が華北工作など従来の帝国主義的な侵冦政策の放棄を唱えた[71]。
2月15日、国民党は赤化根絶決議を採択し[72][71]、大日本帝国側へもコミンテルンとの連絡をやめない限りは共産党の存在は認めないと伝えた[71]。3月、広西省政府は日本人追放令を出した[64]。
4月12日、ソ連大使ボゴモロフが上海で国民政府に対して、英米仏など太平洋関係諸国と集団互助協定を締結するか、また中ソ相互不可侵協定の締結を提案し、さらに協定が締結されなくともソ連は5000万元の武器を供与できると提案した[71]。
4月16日に外務、大蔵、陸軍、海軍大臣四相によって決定された対支実行策(第三次北支処理要綱)では、北支分治や中国内政を乱す政治工作は行わないとされ、また日中防共軍事同盟も項目も削除された[71]。しかし、関東軍は対中高圧政策、対支一撃論を変更しなかった[71]。
1937年5月3日、中国はイギリスに財政基盤強化のための借款供与を要請、イギリスは大日本帝国にも参加を要請した[73]。1937年5月31日、林内閣は総辞職、6月に近衛文麿内閣が成立した[71]。7月5日、川越大使は日本帝国政府にイギリスからの借款供与提案を受諾するよう上申し、電報は盧溝橋事件前日の7月6日に届いた[73]。
1937年(昭和12年)7月7日、当時北支に駐屯していた日本軍の夜間演習中に実弾が二度発射され、日本軍と中国国民党軍が衝突し、盧溝橋事件が勃発する[74]。この日本軍が駐留していた豊台は、義和団の乱の事後処理を定めた北京議定書に定められた駐留可能地ではなく、法的根拠のない駐留だった[75]。当時この地区の居留民保護のため駐留していた外国部隊は日本兵4080、フランス兵1839、米兵1227、英兵999、イタリア兵384であり、日本人居留民は17000人、米欧居留民は計10338人であった[76]。 7月8日、蒋介石は日記に倭冦の挑発に対して応戦すべきと書き[74]、翌日の7月9日には動員令を出し、四個師団と戦闘機を華北へ派遣した[76]。7月19日までに北支周辺に30個師団、総兵力20万人を配備した[76](当時の朝日新聞報道では7月10日動員令、7月17日までに配備完了[77])。 7月11日、日中の現地軍どうしで停戦協定が締結され(松井-秦徳純協定)、中華民国側は遺憾の意思を表明し、責任者を処分すること、盧溝橋付近には中国軍にかわって保安隊が駐留すること、事件は藍衣社(青シャツ隊)、中国共産党など抗日団体が指導したとみられるため今後取り締るという内容の停戦協定が締結された[74][76]。事態収拾に向う動きが見えたことから内地師団の動員は一時見合わせとなった。
一方、同7月11日午前の会議で近衛内閣は関東軍独立混成第11旅団・独立混成第1旅団の二個旅団・朝鮮軍第20師団の北支派兵を発令[74]、支那駐屯軍に編入される。近畿以西の全陸軍部隊の除隊延期も決定する。同日、重篤となった田代皖一郎支那駐屯軍司令官に代え、香月清司中将を新司令官に親補。また近衛内閣は現地解決、不拡大方針を閣議決定[78]、さらに「北支派兵に関する政府声明」を発表し、事件を「北支事変」と名付け、今回の事件は中国側の計画的武力行使であり、大日本帝国はこれに対して自衛権を行使するために派兵(増員)するとした[74]。 7月13日に北平(北京)の大紅門で日本軍トラックが中国兵に爆破され日本兵4人が死亡する大紅門事件が発生。
中国共産党は7月15日に国共合作による全面抗戦を呼びかける。蒋介石も7月17日、廬山談話会において、中華民国は弱国であり戦争を求めてはならないが、やむをえない場合は徹底抗戦すると表明する[74]。中華民国政府は7月19日、国民党の第29軍代表張自忠らが盧溝橋事件の停戦協定の細目実施を申し出、共産党の策動を徹底的に弾圧すること、排日職員を取り締ること、排日団体は撤去すること、排日運動、排日教育を取り締ることを日本に誓約する[74]一方で、盧溝橋事件に関する地域レベルでの決着は認めないと日本側に通告した[76]。7月20日には中国軍第37師部隊は再び盧溝橋付近で日本軍に攻撃した[76]。7月21日、蒋介石は南京戦争会議で大日本帝国に対して武力行使を行うという方針を採択した[76]。7月23日、南京副幕僚長孫浜将軍が北京と保定の軍に対日戦闘を勧告した[76]。
他方、7月22日から中国当局は抗日雑誌等を禁止、藍衣社などを弾圧したと大日本帝国に報告された[74]。
中国軍は北京・天津の電線切断作戦を展開した[76]。 1937年7月25日、郎坊駅で電線を修理した大日本帝国軍が休憩していると中国軍が襲撃した(郎坊事件)[76]。日本帝国軍は修理した電線で天津の本部と連絡をとり、翌7月26日、日本軍戦闘機が中国人陣地を爆撃し[76]、同地を日本軍が占領[74]。日本帝国軍は宋哲元将軍に、北平城から中国29路軍37師を撤退させることで誠意をみせてほしい、もし要請に応じなければ日本帝国軍は大日本帝国にとって適切な行動をとると最後通告を行ったが、中国側は応じなかった[76]。
翌7月26日に広安門居留民保護に駆けつけた日本帝国軍が広安門で中国軍より銃撃を受ける(広安門事件)[74]。
7月27日、日本軍(支那駐屯軍)は総攻撃の実施を決定した[74][76]。東京の内閣は内地師団動員を下令。第5師団・第6師団・第10師団の動員派兵を決定[74]。同日午後11時、南京政府は日本側へ、北支当局と日本軍守備隊の協定に関する交渉を日本へ申し出た[76]。
7月28日午前5時、日本軍支那駐屯軍、北支で攻撃を開始[74][76]。中国軍は5000余人が戦死、撃滅され、同日夜、北平にいた宋哲元、秦徳純などは脱出した[74]。
7月29日には、日本の同盟軍であった冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、抗日側に転じて、日本軍特務機関・日本人・朝鮮人居留民に対して大量虐殺を実施した通州事件が発生[79][76]。同日同時刻に29路軍が天津の日本人租界を攻撃した[76]。 この通州事件は日本軍民に暴支膺懲の意識を強く植え付けることとなる[80]。
7月31日、日本軍(支那駐屯軍)、北平・天津地区を制圧[74]。 日本軍は7月末には北平・天津地方を制圧後、8月には河北省保定(パオティン)以北の制圧を実行に移そうとしたが、河北省南部に集結しつつある中国軍と衝突する恐れがあったため準備期間が必要となり一時延期され、代わりに行われた作戦が8月9日より関東軍が察哈爾省(現在の内モンゴル自治区)とその周辺へ攻略を開始した(チャハル作戦。後に10月17日に包頭を占領し、日本の傀儡政権蒙古連盟自治政府を樹立し、張家口に駐蒙軍(日本軍)が置かれた。その際、9月9日、山西省の陽高で日本軍が武装解除もしくは非武装の成人男子を300名以上を虐殺したとされる事件(陽高事件)があったとされる[81]。
そして、満州事変の時と同じく、戦火が上海に飛び火する。
同8月9日、上海の非武装地帯で日本軍上海海軍特別陸戦隊の大山勇夫海軍中尉が中国保安隊に30発以上の銃撃を受けたあと、顔が潰され、胴体に穴をあけるなどして殺害された (大山事件)[67][82]。当時非武装地帯には保安隊の制服を着せた中国正規軍が投入されており[82][67]、また1932年の休戦協定を無視してライフル、機関銃、カノン砲などを秘密裏に持ち込んでいた[67]。翌8月10日、上海領事は国際委員会で中国の平和維持隊の撤退を要求し、外国人委員はこれに賛成し、O.K.ユイ中国市長も全力をあげて解決すると述べたが、翌8月11日、O.K.ユイ中国市長は「私は無力で何もできない」と日本側へ通告した[67]。 8月12日、中国軍部隊が上海まで前進し、上海日本人租界区域を包囲した[67]。8月13日早朝、日本海軍陸戦隊へ攻撃をしかけた[67]。8月13日午前9時20分、現地で包囲していた中国軍が機銃掃射攻撃を開始し、日本軍陸戦隊は午後3時55分に応戦を開始した[83]。中国軍はさらに午後5時頃爆破砲撃を開始した[82]。
8月13日、日本は閣議決定により上海への陸軍派遣を決定[82]。また同8月13日にはイギリス、フランス、アメリカの総領事が日中両政府に日中両軍の撤退と多国籍軍による治安維持を伝えたが戦闘はすでに開始していた[67]。
翌8月14日には中国空軍は上海空爆を行うが日本軍艦には命中せず上海租界の歓楽街を爆撃、外国人をふくむ千数百人の民間人死傷者が出た[82][83]。
日本政府および軍部は上海への戦火波及はのぞんでいなかったとする見解もあるが[83][67]、近衛内閣は8月15日、「もはや隠忍その限度に達し、支那軍の暴虐を膺懲し、南京政府の反省を促す」との声明を発表し、戦争目的は拝日抗日運動の根絶と日本満州支那三国の融和にあるとされ、上海派遣軍が編成された[82][85]。一方、同8月15日に中華民国も全国総動員令を発し、大本営を設置して陸海空軍総司令に蒋介石が就任、戦時体制を確立し、さらに中国共産党も同8月15日に『抗日救国十大綱領』を発表し、中国全土での日中全面戦争となった[83]。
その後、8月下旬、蒋介石は自軍が日本軍の前に敗走を重ねる原因を「日本軍に通じる漢奸」の存在によるものとして陳立夫を責任者として取締りの強化を指示し、「ソビエト連邦のゲーペーウー(GPU)による殺戮政治の如き」漢奸狩りを開始した[86]。上海南市老西門広場では、毎日数十人が漢奸として処刑され、総数は4,000名に達し、中には政府官吏も300名以上含まれていた[87]。罪状は井戸、茶壺や食糧に毒を混入するように買収されたということや毒を所持で、警察官によって裏切り者に対する警告のために処刑された者の首が晒しものとされた。戒厳令下であるため裁判は必要とされず、宣告を受けたものは直ちに公開処刑された[88]。
同8月15日、日本海軍、渡洋爆撃を開始[83]。15日より16日にかけて、日本海軍航空隊の96式陸攻38機が、南昌・南京・広徳・杭州を台南の新竹基地と長崎大村基地からの渡洋爆撃を行った[89]。15日より30日にかけて、同軍のべ147機が済州島・台北から出撃。広徳・南昌・南京などを空襲。未帰還機14機、大破13機。
8月17日、日本政府は従来の不拡大方針を放棄し、戦時体制の準備を講ずると閣議決定した[82]。
8月18日、イギリスは日中双方に対して双方の軍の撤退と、租界の日本人保護は外国当局に委任してくれれば責任をもって遂行すると通告、フランスもこれを支持した[67]。しかし日本政府はすでに戦闘が開始しているためこれを丁重に辞退した[67]。
8月20日日本海軍、漢口爆撃[89]。 8月21日、中ソ不可侵条約が締結され、5年間はソ連は日本と不可侵条約を締結せず、また中国は第三国と防共協定を締結しないという約束がなされ、まずは戦闘機50機の空輸が上申された[90]。8月22日には西北地域の共産党軍(紅軍)を国民革命軍第8路軍に改編、総兵力は32000[91][83]。
8月23日、日本陸軍が上海上陸開始[92]。しかし中国軍の抵抗が激しく、一日100mほどしか前進できなかった[92]。
8月26日、駐華英国大使ナッチボルー・ヒューゲッセンが日本海軍機の機銃掃射によって重傷を負う。日本海軍が自軍による機銃掃射を否定したためイギリスの対日感情が悪化してしまうが、約一か月後に解決した。
ニューヨークタイムズ1937年8月30日記事では「北京での戦闘の責任については見解がわかれるかもしれないが、上海での戦闘に関する限り事実はひとつしかない。日本軍は戦闘拡大を望まず、事態悪化を防ぐためにできる限り全てのことをした。中国軍によって衝突へと無理矢理追い込まれてしまった」と報じた[67]。
1937年8月31日支那駐屯軍は廃止され、北支那方面軍・第1軍・第2軍へと編成される[25]。
1937年9月28日 - 国際連盟の日中紛争諮問委員会、総会で日本軍による中国の都市への空爆に対する非難決議を満場一致で採択。8月15日から9月25日までの合計11次に及ぶ日本軍による「無差別攻撃」は同年4月26日のゲルニカ爆撃と並んで、世界航空戦史未曾有の大空襲だとされた。
他方、1937年10月、ローマ法王ピオ11世(在位1922-39)は全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を呼びかけ、「日本の行動は、侵略ではない。日本は中国(支那)を守ろうとしているのである。日本は共産主義を排除するために戦っている。共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ」と声明を出した。東京朝日新聞は「これこそは、わが国の対支那政策の根本を諒解するものであり、知己の言葉として、百万の援兵にも比すべきである。英米諸国における認識不足の反日論を相殺して、なお余りあるというべきである」と評価した[94]
上海攻略後、日本は和平工作を開始し、1937年11月2日にディルクセン駐日ドイツ大使に内蒙古自治政府の樹立、華北に非武装中立地帯(冀東防共自治政府があった場所)、上海に非武装中立地帯を設置し、国際警察による共同管理、共同防共などを提示し、「直ちに和平が成立する場合は華北の全行政権は南京政府に委ねる」が記載されている和平条件は11月5日にトラウトマン駐華ドイツ大使に示され、「戦争が継続すれば条件は加重される」と警告したにも関わらず蒋介石はこれを受理しなかった[95]。蒋介石が受理しなかったのは11月3日から開かれていたブリュッセルでの九カ国条約会議で中国に有利な調停を期待していたためとされるが、九カ国条約会議は日本非難声明にとどまった[95]。その後、トラウトマン大使は蒋介石へ「日本の条件は必ずしも過酷のものではない」と説得し、12月2日の軍事会議では「ただこれだけの条件であれば戦争する理由がない」という意見が多かったこともあり、蒋介石は日本案を受け入れる用意があるとトラウトマン大使に語り、これは12月7日に日本へ伝えられた[95]。その後、日本は南京攻略の戦況を背景に要求を増やし、賠償や永久駐留や傀儡化を含む厳しい条件にした。結果、日中和平交渉は決裂した[96]。
4月、中国広西軍は山東省台児荘で日本軍部隊5000兵力を包囲し、壊滅させ[要出典]、中国の民衆は非常に喜んだ[103]。日本軍は中国軍主力が徐州に集中していると判断し[103]、1938年4月7日 - 大本営、北支那方面軍・中支那派遣軍に協力して徐州を攻略するよう(徐州会戦)下命した[102]。5月10日、日本軍、廈門を占領。5月15日、中国軍は徐州を放棄し逃走したので中国軍兵力の殲滅には失敗することとなった[102]。5月19日 - 日本軍(北支那方面軍・中支那派遣軍)、徐州占領[102]。
1938年6月、 蒋介石ら中国軍による黄河決壊事件により河南、江蘇省、安徽省の3000平方キロメートルの土地が水没し、民間人の被害は数十万人となった[103]。日本は6月15日、御前会議で漢口・広東攻略を決定した[102]。1938年7月4日、中支那派遣軍に第2軍、第11軍が編入され、武漢攻略作戦の態勢がとられた[102]。7月11日〜8月10日の日ソ武力衝突張鼓峰事件が解決したのち、8月22日から日本軍、武漢三鎮を攻略開始する(武漢作戦)[104]。10月12日、第2軍が信陽を占領[104]。
広東攻略(中国語版)を命じられた第21軍(兵力7万)は1938年10月9日、台湾を出発、10月12日にバイアス湾上陸し、10月21日に広東を占領、日本軍の損失は戦死173、戦傷493だった[104]。
12月6日決定の「昭和十三年秋季以降対支処理方策」では占拠地拡大を企図せず、占拠した地域を安定確保の「治安地域」と、抗日殲滅地域の「作戦地域」に区分した[104]。12月16日、中国政策のための国策会社興亜院が成立する[104]。
12月18日には蒋介石との路線対立で汪兆銘が重慶を脱出し、昆明、ハノイに向かう[105]。12月22日、近衛首相が近衛三原則を発表(第三次近衛声明)。日華協議記録と類似した内容であった[105]。12月25日、汪兆銘は日本の講和条件は亡国的なものではないと駐英大使につたえる一方、蒋介石は12月26日に近衛声明を批判し、また汪兆銘のハノイ行きは療養目的と公表した[106]。しかし、汪兆銘は12月30日の香港『南華日報』に、近衛声明にもとづき日本と和平交渉に入ると発表した[106]。1939年1月1日、国民党は汪兆銘の党籍を永久に剥奪した[106]。1939年3月21日に汪兆銘は暗殺されようとするが、曽仲鳴が代わりに殺害された[106]。
1939年(昭和14年)1月4日、近衛内閣、総辞職。平沼内閣となる[104]。
1939年の作戦としては1月からの重慶爆撃[97]、2月10日の海南島上陸、3月の海州など江蘇省の要所占領、3月27日の南昌攻略などがあったが、戦争は長期化の様相を呈し、泥沼化していった[105]。阿部信行大将も講演で昨年1938年暮れより1939年夏まで「戦さらしい戦さはない」「ただ平らであるが如く、斜めであるが如く、坂道をずるずる引摺られ上って行かなければならぬ」と述べた[105]。
5月3日、4日の重慶爆撃によって外国人を含む死者3991人の被害が出、その後も10月まで爆撃は続けられた[97]。
6月14日に日本軍は天津のイギリス租界を封鎖するが、これは4月に発生した臨時政府要人暗殺テロ犯人の引き渡しを租界当局が拒否したからであった[105]。日本とイギリスは7月15日から有田・クレーギー会談を実施、イギリス側は中国における現実の事態を完全に承認し、日本軍が治安維持のために特殊な要求を有することを承認するとした[105]。ただし、これはイギリスの対中政策の変更を意味するものではないとされた[105]。
イギリスが日本に一歩後退したのに対してアメリカ合衆国は7月26日、日米通商航海条約の廃棄を突然、日本に通告し、日本側は衝撃をうけた[105]。11月にはグルー駐日アメリカ大使との会談がはじまるが、12月22日、アメリカは中国で日本軍が為替、通貨、貿易など全面的な制限を行っている以上、協定の締結は不可能として拒絶した[105]。
1939年5月汪兆銘は来日し、1939年6月に平沼内閣は中国新政府樹立方針、汪工作指導要綱を発表、前年11月30日の日支新関係調整方針を和平条件とした[106]。その後、汪兆銘は中国の各地方政府を周り、意向を打診、11月1日、上海で日本と交渉するが、日本の蒙疆、華北に防共駐屯、南京、上海、杭州にも駐屯、揚子江沿岸特定地点にも艦船部隊駐屯提案に対して汪側は太原〜石家荘〜滄州のライン以北に限定するよう日本側に大きく譲歩したうえで要求するが、日本側は山東省を加えるよう要求した[106]。12月30日、日華新関係調整要綱が成立[106]。
1940年(昭和15年)1月、阿部内閣から米内内閣に変わった[105]。 1月6日、汪兆銘の腹心高宗武らが上海を脱出し、香港で日本の講和条件を暴露し、汪兆銘は傀儡と訴えた[106]。これによって蒋介石の支持層が拡大した[106]。
1940年5月・6月のドイツ軍による西ヨーロッパの席捲を進撃を背景に日本政府は6月24日、英仏にビルマルートおよび香港経由による援蒋行為の停止を要求した[105]。
5月18日より、日本軍、漢口、運城基地から重慶、成都を空襲する一〇一号作戦が10月26日まで実施された[97]。6月12日には宜昌占領[97]。6月24日から6月29日までは連続して猛爆が行われた [97]。
7月18日、英国、日本の要求に応じ援蒋ルート(ビルマルート)を閉鎖[97]。 7月26日、基本国策要綱で「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神」が唱えられた[97]。7月27日の大本営では南方問題解決のため武力を用いることが決定された[97]。8月1日、松岡外相は日本満州シナを一環とする大東亜共栄圏確立という外交方針を発表した[97]。
1941年4月中旬より、重慶工作の道がないため、日米交渉が開始された[109]。日本は三国同盟3条の日本に参戦義務についてと、アメリカ仲介による日中戦争解決を要望したが、アメリカは門戸開放、機会均等の無条件適用を提示した[109]。
6月22日、独ソ戦がはじまると、松岡外相は即時対ソ参戦を上奏したが、7月2日の御前会議は独ソ戦不介入を決定、南方進出を強化し、対英米戦を辞せずと決定した[109]。7月7日 - 関東軍特種演習(関東軍、対ソ戦を準備するが8月に断念)。7月10日、アメリカ対案に対して外務省顧問斉藤良衛は、南京政府の取り消し、満州の中国への返還、日本軍の無条件撤兵などを意味していると解釈、松岡外相もこれに賛同した[109]。7月28日、日本軍、南部仏印進駐を実施、英米は日本資産を凍結した[109]。8月1日 - 米国、対日輸出を大幅に制限。
1942年(昭和17年)1月1日、蒋介石は日本は一時の興奮を得るが、結局は自滅すると語った[110]。
日本軍、4月19日に鄭州を占領、5月25日には 洛陽を占領。京漢作戦が成功。
この節の加筆が望まれています。 |
日中戦争期間中に国民政府が徴発した兵士の総数は約1405万人である。動員を可能にすべく1936年から開始された義務兵役制度は、容易に軌道に乗ることはなく、当初は、名は徴兵であるが、実際は募兵と拉致であったとされる[119]。拉致被害者で目立つのは、他地域の住民や旅行中の行商人、糧食などの運搬労働者であり、博徒や乞食なども含まれていた[119]。
発表年 | 死傷人数 | 調査・出典 | 補足 |
1946年 | 軍人作戰死亡132万8501 | 中華民國國防部・発表[122] | 国民革命軍のみ |
1947年 | 平民死亡439万7504 | 中華民國行政院賠償委員會[123][124] | 國民黨統治區 |
1947年 | 軍民死傷1278万4974 | 中華民國行政院賠償委員會[123][124] | 國民黨統治區·軍人死傷365萬0405·平民死傷913萬4569 |
1985年 | 軍民死亡2100万 | 共産党政権発表(抗日勝利40周年) | |
1995年 | 軍民死傷約3500万 | 江沢民発表[125] | 江沢民、纪念抗日战争胜利五十周年大会上的讲话 |
上記の表で中国側の犠牲者が132万とあるが、この数字は中国国民革命軍のみの数であり、必ずしもその人数が正しいとはいえないことに注意が必要。当時の中国大陸では、日本軍・南京中華民国政府軍・蒋介石国民革命軍・共産党軍(現:中国人民解放軍の前身)・その他馬賊や抗日武装勢力など複数の勢力が、割拠する地域で、日中戦争中には主に2つの勢力に分かれて戦争を行っていた。また国共内戦は国共合作以降も断続しており、第二次世界大戦後には再開している。中国の民衆は戦争に翻弄され、農業や商業、工業、運輸などの生活基盤を破壊されると共に各勢力の戦闘やゲリラ戦に巻き込まれ命を落としたり、戦闘継続の中、日本軍のみならず自国民たる各勢力に食糧を徴発されたことや焦土作戦の影響で飢餓に陥る人も大勢いた。また日本人をはじめ在留外国人も戦闘に巻き込まれた。(中国空軍の上海爆撃 (1937年)を参照)。
[126]。--->
以下、各犠牲者数について注釈する。
第二次世界大戦の戦勝国に基づき、中華民国は国際連合安全保障理事会常任理事国となった。
中間賠償と同様に、ヴェルサイユ条約でドイツに課せられた膨大な賠償金がドイツを再び戦争へと向かわせたことへの反省から、在外資産を没収する形での賠償をさせようという方針がとられた。
太平洋戦争および日中戦争の終結前後に、蒋介石率いる中国国民革命軍と毛沢東率いる中国共産党軍の間で国共内戦の再開が中国国内で懸念されると同時に1945年9月からは上党戦役など内戦がはじまる。アメリカも中国内戦を阻止するために介入し、重慶会談をはじめ様々な交渉が持たれるが、1946年6月に、蒋介石率いる国民革命軍が全面侵攻命令を発する。 1949年から1950年にかけて、中国共産党軍が国民党軍を破り、蒋介石らは台湾へ逃れ、中華人民共和国が成立する。
国民党の蒋介石は「徳を以て怨みに報いる」として、終戦直後の日本人居留民らに対して報復的な態度を禁じたうえで送還政策をとった[131]が、中国共産党軍は、シベリア抑留と同様に多くの日本人を強制連行・留用し、特に医療や建設関係に従事した。また1946年2月3日には、 八路軍の圧政に蜂起した日本人だけでなく蜂起していない日本人も大量に虐殺される通化事件が発生している。
1951年9月8日には日本と連合国とが平和条約を締結する(日本国との平和条約)。翌1952年4月28日には、日本と中華民国とが平和条約を締結される(日華平和条約)。
1971年10月25日、 国連でアルバニア決議が採択され、中華民国が中国の代表権を喪失するとともに常任理事国の地位をはく奪され、中華人民共和国が中国の代表権を得る。日本と中華人民共和国との国交正常化は、1972年(昭和47年)に周恩来と田中角栄の手により実現した。同年9月29日、日本と中華人民共和国とが日中共同声明を発表。中華人民共和国側は共同声明で賠償放棄を宣言、代わりに「隣国として助け合うこと」・「過去の過ちと反省」などの理由から日本は中国の発展のため、政府開発援助(ODA)を実施することを約束し戦後処理が決着した。また日本は日華平和条約の終了を宣言する。1978年8月12日には、日本と中華人民共和国が日中平和友好条約を締結。日中間の賠償は放棄し、中華人民共和国は日本から経済援助を受ける。日本は中華人民共和国に対し1979年から2013年度までに有償資金協力(円借款)約3兆3,164億円、無償資金協力を1,572億円、技術協力を1,817億円、総額約3兆6,553億円のODAを実施した[132]。廃止の方向にあるODAに変わって、財務省影響下のアジア開発銀行が肩代わりして迂回融資を行い、1年あたりの援助金額は円借款の2倍であり[133]、アジア開発銀行から中国への援助総額は日本円で2兆8000億円に上っており、「日本の対中国ODAは3兆円ではなく6兆円。3兆円は日本政府から中国政府に直接援助した金額。アジア開発銀行等の迂回融資分をあわせると6兆円」という指摘がある[134][135]。
当時関東軍参謀だった瀬島龍三は、「満洲を建国したことで朝鮮半島が安定したが、満洲国が建国したばかりで不安定だったことから満洲の安定を図るために満洲と中国の国境ラインに軍隊を移駐したところで中国勢力と衝突した」と戦後の談話で述べた[136][136]。
南京戦陥落直後の1937年12月19日に読売新聞は「日本は初めこの事変をこうまで拡大する意志はなかった。支那に引張られてやむを得ず、上海から南京まで行かざるを得なかった」として、事変の序幕は西安事件で蒋介石が共産党と妥協させられてからで、それ以降は「共産党戦術」が著しく、「支那と日本と大戦争をやらすのが共産党の利益であると打算しているようであった」と報道した[137]。
また同月に報知新聞も西安事件以来南京政府は大きく変化し、「政治的には国共合作後の共産党的圧力、経済的には在支権益を確保せんとするイギリス資本の掩護、思想的にはソヴィエト流の抗日救国の情熱、それ等が決河の勢いをなして北支に逆流し、ついには上海における計画的挑戦の暴露となり、戦局の急速なる拡大となってしまった 」とし、「今度の事変が決して支那と日本との問題でなく実に支那を舞台とするイギリスとソヴィエトの動きを除いては事変そのものすら考え得られないということも次第に明かとなり、東洋における防共と反英運動とが新らしい政治的課題として登場して来た」と回顧した[138]。また、イギリスは表面は不干渉を表明したが、南京政府への支援を続け、さらに米国を巻き込むことに成功したと報じた[139]。
なお、盧溝橋事件(1937年7月7日)が4日後の松井=秦徳純協定により収拾し、日本の動員の決意表明の後に、中国共産党の徹底抗戦の呼びかけ(7月15日)及び蒋介石の「最後の関頭」談話における徹底抗戦の決意の表明(7月17日)によって、中国軍の日本軍及び日本人居留民に対する攻撃が連続して戦闘が本格化した。この背景には日本の侵略に抵抗する中、1935年に胡適が「日本切腹中国介錯論」を発表したときの考え、つまり一種の焦土作戦により日本を持久戦に引きずりこみ、最終的に米ソの介入による勝利を目論んでいたという説がある。
特殊な意見として、田母神俊雄(当時航空幕僚長)は、日本は国際法上合法的に中国大陸に権益を得て比較的穏健な内地化を進めようとしていたが、コミンテルンの工作によって蒋介石の国民党や中国共産党からの度重なるテロ行為に干渉され、またベノナファイルで明かになったように中国と同じくコミンテルンの工作を受けたアメリカに介入され、結果的に日中戦争に引きずり込まれることとなったと論じた[140]。しかし、政府と防衛省幹部が内容に問題にあるとして田母神は浜田靖一防衛大臣から更迭された(田母神論文問題)[141]。小堀桂一郎、中西輝政、西尾幹二などは田母神論文の内容を支持し[142]、小林節、纐纈厚、森本敏、笠原十九司らは論文を批判した。
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