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和食 | |
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「和食:日本の伝統的な食文化、特に新年祝賀」魚、野菜、食用野草など地域の食材を使った自然を尊ぶ心との結びつきは、天然資源の持続可能な利用にも通じる。特に新年祝賀では餅をつき、意味のこもった美しい料理を用意し共同体で分けられる。 | |
登録基準 | R1, R2, R3, R4, R5 [1] |
参照 | 869 |
登録史 | |
登録年 | 2013 |
日本料理(にほんりょうり、にっぽんりょうり)は、日本の風土と社会で発達した料理をいう[2][3][4]。洋食に対して和食とも呼ぶ[5]。食品本来の味を利用し、旬などの季節感を大切にする特徴がある[6]。和食は2013年に無形文化遺産に登録された。
広義には日本に由来して日常作り食べている食事を含むが、狭義には精進料理や懐石料理などの形式を踏まえたものや、御節料理や彼岸のぼたもち、花見や月見における団子、冬至のカボチャなど伝統的な行事によるものである[7][8]。日本産の農林水産物・食品の輸出も2013年から右肩上がりに伸びている。2016年は7502億円と2012年の4497億円から1.7倍に増え、2017年は8000億円台に乗せた。日本国政府(農林水産省)は1兆円を目標としており[9]、日本食レストランの増加と日本食材輸出を推進している[10]。
料は米と斗の会意で、米などの体積を斗などの計量器ではかる意味を持つ。加えて食料など食品の意味も持つようになり、また料理という言葉ができてからはその略ともなる。理は玉が意符で里(り)を声符とする形声で、玉のすじやきめを美しく磨くことから、物事の筋道やおさめるという意味を持つ。平安時代に登場する料理という言葉は物事をはかりおさめるという意味で、うまく処理することである。またすぐに現在に通じる調理やそれによってできる食品を意味するようになる。[2][11][12][13]
料理の意味するところは、家庭の台所や飲食店の厨房などで行われる食品加工の最終段階とすることが多い。現在では食品工場などで広く行われる脱穀や精米、豆腐やかまぼこの製造なども、地域や時代や集団によっては料理の範疇である。広義では、米の量をはかりどれだけ食べてどれだけ種籾とするかなど、家庭や国家の献立や食料計画をも意味する。また焼けた獣骨の遺物の発見から北京原人などと呼ばれるホモ・エレクトスの火の利用や、宮崎県幸島のニホンザルの群れがサツマイモを海水で洗い味付けして食べるということも、料理と考える場合もある。[3][4]
料理の概念は言語によっても異なる。中国語では烹調などが調理の料理を表し、烹で煮ること、加熱することを意味する。また菜が食品の料理を表し、これは採集した植物などを意味する。英語でもcookingは加熱することを意味し、加熱しない生のものをrawと区別する。dishで食品の料理を表す。フランス語のcuisineは台所や厨房をあらわし、また調理や食品の料理もあらわす。[14][11][12][15][16]
「日本料理」と「和食」と言う言葉は文明開化の時代に日本に入ってきた「西洋料理」や「洋食」に対応する形でできた言葉であり、「日本料理」は石井泰次郎[17]による1898年(明治31年)の『日本料理法大全』により一般化され、「和食」はそれ以降に現れたものであると見られている[18]。20世紀初頭では、日本料理の用例は早くて1881年の『朝野新聞』5月20日にみられる[19]。ある調査では明治、大正時代にかけて日本料理を書名に持つ書籍は4点しかみつからず、1904年の『和洋 家庭料理法』では日本料理は家庭料理を指しており、現在とイメージが異なっていた[19]。1903年の村井弦斎の『食道楽』には日本料理、西洋料理が対比して解説されており、『食道楽 秋の巻』では米料理百種として、日本料理の部では油揚飯、大根飯、栗飯など50種のご飯を紹介している。
21世紀初頭の『広辞苑』や[6]、『大辞泉』にて「和食」の項をひくと「日本風の食事。日本料理。」のように端的に書かれており、「日本料理」の項には冒頭の第一段落に説明したようなもう少し長い説明がある。『世界大百科事典』によれば、日本料理は米を中心として獣肉と油脂の使用が極めて少ないという特徴があり、室町時代以降に日本料理の基礎が固まり、江戸時代後期にほぼ完成に至ったものである。『日本大百科全書』では、日本料理の一般的な起源を『古事記』『日本書紀』における火闌降命(ホノスソリノミコト)たちの神話や、その3代後の神武天皇紀などにあるとしている。
「日本料理」には料理屋で提供される高級料理のイメージがある一方、「和食」は家庭食も含む日本食文化全体を表す言葉として、よりふさわしいとする意見もある[20]。原田信男によれば、和食は米と魚の文化であり、その原型に神へのおもてなしがあり[21]、ユネスコへの登録に関して出版された和食文化国民会議のブックレットによれば、和食には自然の中の神が年中行事の中で食と結ばれたという特徴を持つ[22]。原田信男によれば、厳密に料理人が考案した伝統的な日本料理とすると、すき焼き、てんぷら、寿司は庶民の間に生まれたため含まれず、カレーやラーメンは日本独特に発展しており広くみると和食である[21]。
東京家政学院の江原によれば、和食の基本形は飯・汁・菜・香の物であり、米、大根、ナスの様な伝来した食材が使われ、魚介・海藻の豊富さ、蒸し・茹で・煮るといった調理法、昆布、鰹節、煮干しといったダシの文化、味噌、醤油、酒、味醂、酢といった調味料、平安時代から現在まで継承された七夕の様な節供の年間行事との関りを挙げている[23][24]。京料理の料理人から見れば、和食の要にあるのはダシのうまみであり、魚を焼くという技術を高度化し、食器も日本風に調製し、鎌倉・室町時代には天ぷらような伝来した技術も取り入れ、これらはご飯を中心にして和食として形作られ、取り肴、造り、御椀、焼き物、揚げ物、焚合わせ、香の物といった献立を成立させ、日によってこうした中から組み合わせその日の献立を作る[25]。取り肴ではちょうど口に入る大きさの1寸という型があり、日本料理はその大きさに切られ、二十四節気の季節感を入れ込んでいく[25]。造りとは、生魚を切るという技術によって調理された素材を生かす調理であり、御椀は、日本料理を成立させるために不可欠な献立であり、鰹節と昆布だしを使い、カニや魚のすり身など主となる食材が入っており、その器も口をつけて食べることができるようになっている[25]。日本料理の焼き物は腕を問われるもので、塩、醤油と酒、醤油と味醂、味噌と砂糖といった調味料を使って魚を焼き、火には炭火を使い客席に届くまでに余熱で中まで火が通るように仕上げる[25]。炊き合わせは野菜が中心であり、奈良時代に伝来した茄子、蕪、葱、室町時代の大根、江戸時代のインゲン豆、蓮根、キャベツ、牛蒡、サツマイモ、竹の子、トマト、明治時代には玉葱やオクラ、昭和時代には白菜、ピーマンといったものが使われるようになり、煮物、蒸し物、煎り物など多様に調理される[25]。
平安時代にまで遡ると、大饗料理では椅子とテーブルにスプーンといった大陸文化の影響があったが、和風化が進み消えていった。その後の宴会では、おもてなし料理としての二汁五菜が定着し、和食の伝統である日本の家庭料理はご飯を中心にした一汁三菜の日常の食にある[26]。
日本はアジアの東端に位置し、その風土は大部分が温帯で、南北に長く海洋に囲まれている。四季がはっきりして、降水量も多い。このため、野菜や果物、魚介類、海藻などの食品が量とともに種類も豊富である[27]。ほとんどの料理は、ご飯に対するおかずという位置づけであり、米と酒に調和する[28]。
歴史的に肉食が禁止され、長きにわたり乳製品も普及しなかった[29](乳製品には蘇と醍醐が例外的にあるだけで欠如した)。食用油の使用も古くは発展せず、例外的に唐菓子があり、南蛮料理に由来する天ぷらによって、油の使用が普及していった[28]。
このため、肉や油脂に代わる味付けとしてだしが発達した[29]。こうした背景が淡白な味付けを生んでいる[28]。強い香辛料はあまり使われず、旬の味、素材の持ち味が生かされる[28]。味噌や醤油は大豆を発酵させた調味料で、これもうま味を伴う。甘み付けには水飴・みりんが使われ、現在は砂糖も使うが、歴史的には高価であまり普及しなかった。
現在の日本では流通が発達して世界中の食品や調味料が入手でき、それの日本料理への応用も行われている[30]。
漬物は日本にざっと6百種はあり[要出典]、日本の食生活と共にあった。奈良時代の天平年間(710年から794年)の木簡にウリの塩漬けの記録があり、平安時代に成立した『延喜式』には酢漬け、醤漬け、粕漬けなどの記載がある。室町時代から江戸時代にかけて全国に漬物屋ができ、江戸時代には種類を増やし各地方の名物となった[39]。
納豆は大陸から伝来してから日本人の技術で改良され、古くは納豆菌ではない奈良時代の発酵大豆「くさ」があった。納豆は京都の大徳寺、天竜寺で作られ寺納豆、浜名湖の大福寺の浜納豆とも言われ、糸引き納豆は室町時代中期に生まれている[40]。
ダシは、鰹節、昆布、椎茸が三大である[41]。煮干しも使われる。日本国外では味は、五味として甘辛酸苦鹹と説明してきたが、日本人は鰹節のうま味を加えて六味としてきた[41]。日本料理以外の鶏ガラなどのように油脂が浮くことがない[41]。こうしたダシは、日本料理の方向を決定する要因となり、粋、優雅、上品さ、質素で格調高い、淡白で奥深い味が精進、懐石、侘び寂び料理を生み出してきた[41]。鰹節の原型は、平安時代『延喜式』に素干しの保存食の堅魚(かたうお)があるが、今のように燻したのは江戸時代の1674年である[41]。
調味料について。塩(食塩)は20世紀末に自由化されると非常に多様な種類が流通するようになった。日本列島は親潮・黒潮が流れる5つの海域に囲まれている[42]。6世紀頃になると海藻を焼いてその灰を使った灰塩ではなく、海藻を煮詰める藻塩が生まれ、『万葉集』に詠まれた。奈良時代になると塩田や釜が製塩に使われるようになり、揚浜式(8世紀)、入浜式(中世)の塩田が各地に海浜に造られた。1952年からイオン交換膜式を用いた塩専売法による食塩事業を国が始めたことで塩田は消滅した。昔ながらの塩田を求めて1971年からの自然塩運動により、1997年に新たに塩事業法が施行され、製塩は自由となった[42]。イオン交換膜式では塩化ナトリウム99%以上となり塩辛さだけが際立つが、それ以外の製法ではマグネシウムの苦味、カリウムの酸味、カルシウムの甘味が複雑な味を醸し出す[42]。料理の基本は、塩梅、ダシ、火加減とされ、多様な調味料がない昔には、塩と梅干しのサジ加減が重要であった[42]。
酢は、酸味と共に抗菌作用があり重宝されてきた[43]。古くは『万葉集』に醤酢(ひしおす)の記述がみられ、奈良時代にはナスの酢漬けがあり、中世には酢飯が開発された[43]。
醤油は、伝来したものを日本人が独自につくりあげた。大豆と小麦と塩を発酵させたもので、中国の醤(じゃん)など大陸のものとは微生物、製法が大きく異なる。アジアが起源と言われるが確認はされておらず、その元となった比之保(ひしお)は弥生時代から大和時代に日本に伝来したとされ、平安時代には広く浸透し魚を使ったものが最も普及し、魚醤のようなものとして伝来したと考えられる[44]。
味噌は、701年の『大宝令』には未醤(みしょう)が記載され、日本で造られた「噌」の字を後に当てたとされ、生産地の名をつけ各地の気候や風土、農産物、土地の者の嗜好を反映している[44]。
飴は、もち米などのデンプンを糖化したもので、『日本書紀』『延喜式』にも記載がある甘味料である[45]。砂糖は奈良時代にも薬として伝来し、室町時代には菓子にも使われたが、輸入量が大きく増加するのは江戸時代である[46]。18世紀前後になると輸入された砂糖が菓子に広く使われるようになり[45]、次第に調味料となっていった。砂糖・塩・酢・醤油・味噌で「さしすせそ」とする近代の語呂合わせがある。
薬味には、ワサビ、生姜、唐辛子、山椒、ネギ、シソなどがある。
季節感が重視される。旬の食品は美味しく、また市場に豊富に出回り値段も安く栄養価も高くなるため、味を楽しむ好機と考えられている。七草がゆのように、野草特有の自然なあく強さや苦味も味わう。また初鰹のような季節を先取りする「走り」、落ち鮎のような翌年まで食べられなくなる直前の「名残」など、同じ食品でも走り、旬、名残と三度の季節感が楽しまれる。
季節の表現は切り方や色でも表現される。春は淡いウドなどをサクラの花びらに見立てて切る。夏は青みのシロウリやキュウリを雷や蛇腹に切る。秋は鮮やかなニンジンなどをモミジやイチョウの葉に切る。冬や新年はユズを松葉に切ったり、ニンジンを梅の花に切ったり、ダイコンとニンジンで紅白を表現したりする。 [7][8][47][48]
また山水盛りや吹き寄せ盛りのように、自然そのものを表した盛り付けもなされる。[7][8]
調理場を「板場」、料理人や料理長を「板前」[6]とまな板と関連付けて呼び、切ること自体を煮炊きから独立した調理の一つとしている。「切る」ことを重視する姿勢は「割主烹従(かっしゅほうじゅう)」と呼ばれ、包丁を使って「割く(切る)」ことが主で、「烹る(火を使う)」ことが従うとされ[49]、食品そのものの味を重視することにつながる。また「割主烹従」から「割烹」という言葉も生まれ、日本料理そのものやそれを提供する店を表す[6]。
日本料理の椀物(吸物)と刺身は、合わせて「椀刺」や「椀差」と呼ばれ、重視される[50][51][52][53][54]。その味によって腕前を確かめられるともされる[49]。
日本料理の献立やメニューは、米を中心とした穀物に生理的熱量や栄養を依存するものであった。穀物は飯などに料理されて食事の主たる主食として扱われる。主食に対する副食の惣菜は、飯を食べるための食欲刺激として用いられ、御飯の友などという概念もある。また飯の代わりに米による日本酒伴う宴会などでは、惣菜がそのまま肴としても用いられる。飯と汁物に惣菜からなる、一汁一菜や一汁三菜など複数の料理からなることが多い。[28][29]伝統的に左を上位とする風習があるため、主たる飯を左側に置いたり、魚の頭を左向きに置いたりして配膳することが多い。日常の食事などでは、これらの料理は一度にまとめて配膳されることが多いが、懐石料理などでは、一品(あるいは一膳)ずつ順番に配膳される。
食器は、漆器、陶器、磁器など。家庭では、ご飯茶碗・箸は、各人専用のもの(属人器)を用いる習慣がある。 暖かい時期には、薄手で浅めの磁器を主に、暑くなるとガラスの器なども使われる。涼しい時期には、厚めで深手の陶器を主に、寒くなると蓋付きの器なども使われる。また漆器では、蒔絵や沈金などの絵柄で季節を表現することがある。 [7][8][47][48]
日本料理は各家庭の他に、蕎麦屋や寿司屋などの専門店、居酒屋や料亭や割烹、また待合やお茶屋、行楽地、さらに現代では宇宙食など、様々な場所で食事ができる[47]。
群馬県の岩宿遺跡で更新世のローム層から旧石器時代の石器が発見された。岩手県の花泉遺跡では約2万年前のハナイズミモリウシ(野牛)、原牛、ヤベオオツノジカ、ヘラジカ、ナツメジカ、ナウマンゾウ、ノウサギなどの化石が大量にまとまって発見された。これらの化石の骨は石器で切るなどした解体痕がある。また研磨して先端を尖らせた骨角器と、敲石と思われる使用痕のある石器も発見された。これらから花泉遺跡は狩猟による動物を解体し食肉を得たキルサイトと考えられている。また長野県の野尻湖立ヶ鼻遺跡も約4万年から2万4000年前のナウマンゾウとヤベオオツノジカを主としたキルサイトと考えられている。東京都の野川遺跡などからは礫群や配石(置石)が発見されている。礫群は焼けたこぶし大の石が数十から百個ほど1ヶ所にまとまったもので、動物質の有機物が付着したものも発見されている。礫群は食肉を焼くのに用いたと考えられている。また木器や樹皮などによる容器に水や食品と共に礫群の焼け石を入れ煮るのに用いたとも考えられている。当時の日本列島は大部分が亜寒帯性の針葉樹林が広がっていて、植物性の食品は乏しく漁撈も未発達なため、ビッグゲームハンティングと呼ばれる大型哺乳類を主とした狩猟に依存した生活だったと考えられている。哺乳類などの動物はフグなどの毒のあるものが少なく、内臓や筋肉、皮膚や脂肪や血液、骨髄や脳髄など、骨や毛などを除けば、大部分が可食部である。寄生虫や微生物など病原体の問題もあるが、生でも食べることができる。レバ刺しや膾、カルパッチョやユッケやタルタルステーキのような料理や、火が使える状況であれば礫石などを利用して、石焼や蒸し焼きなどの焼肉のような料理が考えられている。またさいぼしやジャーキーなどのように干肉にして保存食にしたとも考えられている。[55][56][57][58][59]
約1万年前に地球規模の気候変動で氷期から間氷期に変わり完新世が始まる。日本列島では温暖化に伴い針葉樹林は北海道や高山帯に限られ、本州の東側にブナやナラ、クリやクルミなどの落葉広葉樹林が、本州の西側と四国、九州、南西諸島にはカシやシイ、クスノキなどの照葉樹林が広がる。ナウマンゾウやヤベオオツノジカなど大型哺乳類は絶滅あるいは生息しなくなり、ニホンジカやイノシシなど中小哺乳類が増える。また海面の上昇に伴い対馬海流の流量も増え、日本海側も太平洋側と共に暖流と寒流の交わる良漁場となる。このような風土の変化に伴い縄文時代が始まり磨製石器と共に縄文土器が用いられる。世界的には中石器時代あるいは新石器時代に相当するが、農耕や牧畜は普及せず、採集に加えて狩猟や漁撈を主とする生活である。[55][56][57][60]
土器を用いて煮ることが発達し、採集による植物性の食品の利用が増えた。クルミ、ドングリ、クリ、トチなどの堅果類を竪穴式住居の近くに穴を掘り備蓄したものが多く出土している。クルミは脂質を多く含み生でも食べられるが、クリやドングリやトチはデンプンを多く含む。生のベータデンプンは消化されにくいため、水と熱とで結晶構造を破壊し、アルファデンプンに変える必要がある。またドングリはタンニンを含む種類が多く、石皿と磨石で潰したり粉にし、水に晒したり茹でたりして灰汁抜きをした。トチは非水溶性のサポニンやアロインを含み、灰を加えて煮ることで灰汁抜きをした。またクズやワラビ、ヤマノイモやウバユリ、ヒガンバナなど野生の芋類も、アルカロイドなどの毒を水に晒すなどして除去し、デンプンを利用したと考えられている。動植物の遺物による調査と、遺骨コラーゲンの同位体比による調査から、これら植物性のデンプンから熱量の大半を得ていたことが分かる。植物性の食品の利用が増えたのに伴い、従来の食肉やレバーや血液などから摂取していた塩の必要性が生じ、海水を土器で煮る製塩も行われた。日本原産の香辛料であるサンショウを入れた土器も発見されている。また栽培作物であるソバやオオムギやアワ、エゴマやリョクトウやヒョウタンなどが、少ないながら出土している。[55][56][60][59]
狩猟による食肉は大半がイノシシとニホンジカによるもので、その他カモシカやエゾヒグマやツキノワグマ、タヌキやアナグマなど様々である。またキジやカモ、ガンなどの鳥類も対象とした。狩猟は縄文時代に登場した弓矢によるものを主とし、罠や落とし穴なども用いた。またイヌは飼育されており、猟犬として用いたと考えられている。北海道ではアザラシやトド、オットセイなどの海獣などを対象とし、回転式離頭銛が用いられた。イノシシは伊豆諸島や北海道から遺物が発見されていて、移動や飼育、動物儀礼などについて議論されている。[55][56][57]
漁撈による魚介類は、貝塚を主に形成するハマグリやアサリ、カキやシジミなどの二枚貝が多い。内湾性のスズキやボラ、クロダイやコチなどを対象とし、骨角器によるヤスや石錘を利用した漁網も用いた。またイワシやサバなど小魚を対象とし、漁網によるものもある。東北地方の三陸沿岸では外洋性のマグロやカジキを対象とし、骨角器による釣り針や、回転式離頭銛を用いた。九州北西部でも外洋性のマグロやサワラ、シイラやサメを対象とし、骨角器による組み合わせ式釣り針を用いた。内陸河川でのサケやマスも、北海道や東北地方では重要な食品であったとする考えもある。[55][56][57]
料理としては、堅果類などのデンプンをこねて灰の中で焼いたビスケットやクッキーのような縄文クッキーが出土している。また土器の利用により、デンプンを団子状にして煮たすいとんのようなものや、水で溶いて煮て粥状にしたものも考えられている。食肉や魚介類はすいとんや粥に混ぜたり、汁物や吸物のような羹や、鍋料理のようなものが考えられている。[55][56][59][61]
採集や狩猟や漁撈は自然によるもので、四季のある日本列島では季節性が表れる。宮城県の里浜貝塚における調査では、春にはアサリや木の芽や若草などの山菜を採集し、夏にはマグロやアジやサンマなどの漁撈と海水による製塩、秋にはサケの漁撈と堅果類の採集、秋から冬にかけてニホンジカの狩猟と土器の製作と、季節に応じた食生活を行っていた。また食生活は、自然だけでなく人口密度なども含めた生態学的条件でも異なり、さらに北海道礼文島の船泊遺跡と浜中2遺跡のように、同時期同地域にあっても集団の歴史的や社会的な文化にもより異なる。沖縄諸島や奄美諸島ではこの時代を貝塚時代の前期ともよび、伊波式土器や荻堂式土器を伴う独自の文化でもある。また沖縄県波照間島の下田原貝塚では、八重山土器やピラ型石器、イノシシの骨が出土していて、この頃先島諸島では漁撈とともにイモやアワの畑作農耕やイノシシの飼育が行われていたと考えられている。この文化は、九州や沖縄本島などからの縄文文化の影響はほとんど受けず、台湾や中国大陸江南の影響を受けた独自の文化と考えられている。このように地域や時代、集団によって多様な食文化を伴う縄文時代は、様々な定義があるが縄文土器を基準にして、北海道から沖縄県まで日本列島のほぼ全域を対象とし、約1万6000年から1万2000年前に始まり、紀元前900年から紀元前400年の頃まで続いたとされる。[55][56][57]
稲作と栽培種イネは、アフリカのニジェール川周辺に起源するアフリカイネと、アジアに起源し世界各地に伝搬したアジアイネとの2つがある。中国大陸の長江流域では、紀元前1万年頃のイネの資料の発見、紀元前6000年頃の湖南省彭頭山遺跡から籾殻の混じった土器の発見、紀元前5000年頃の浙江省河姆渡遺跡が発見されている。河姆渡遺跡は約400平方メートルの範囲に籾殻などが堆積していて、鋤や臼と杵なども伴うほぼ完成された水田稲作が行われた。紀元前3000年頃の浙江省銭山漾遺跡などの良渚文化に続き、紀元前1000年頃の江南江淮地域に幾何学印文陶文化が表れる。また黄河流域では、紀元前1万年頃アワやキビの利用があり、紀元前6000年頃中流域でアワと農具が発見で栽培が考えられ、紀元前3000年頃に長江流域からのイネと西アジアからのムギが伝来し、紀元前2000年頃にマメの栽培で五穀が揃うことになる。[55][56][60]
朝鮮半島では紀元前4000年頃の黄海北道知塔里遺跡から炭化したアワもしくはヒエの粒の発見、紀元前2000年頃の京畿道欣岩里遺跡から陸稲と思われる粒がオオムギやアワなど畑作物と共に発見、紀元前8世紀頃には忠清南道松菊里遺跡などで炭化米が発見、紀元前7から6世紀の無去洞峴遺跡などから水田が発見されている。[55][56][60]
中国大陸東北部とロシア東部では、紀元前1000年頃のアムール州や黒竜江省のアムール川沿いや沿海地方では、ウリル文化やヤンコフスキー文化や鶯歌嶺上層文化で、それぞれアワやキビの栽培とブタを飼育する農耕が行われた。 [55][56][60]
日本列島では、縄文時代の北海道で、早期の中野B遺跡からヒエ類が発見、前期の美々貝塚遺跡から畑跡と考えられる遺構が発見されている。また中期の臼尻B遺跡からアワの発見、晩期の塩屋3遺跡からオオムギとアワが発見されている。これらの縄文時代の北海道から出土する穀物類は、沿海地方などからの伝搬が考えられている。縄文時代中期以降の本州や九州などの遺跡では、稲や大麦、小麦、アワ、ヒエ、キビなどが発見されて、福岡県のクリナラ遺跡からは畑跡が発見されている。縄文時代に大陸から畑作物としてイネを含めた穀物が伝搬し、陸稲栽培を含む畑作が行われたと考えられている。また福岡県の板付遺跡や佐賀県の菜畑遺跡などで、用水路や畦が整備された縄文水田が、木製の鍬や石包丁などの農具を伴い発見されている。この九州北部で発見された整備された水田や農具を伴う完成された水田稲作文化は、陸稲栽培を含む畑作が発展したのではなく、紀元前2000年紀後半から紀元前1000年紀前半にかけて中国大陸の江南や江淮地方に展開していた金石併用期の幾何学印文陶文化の前期における完成された水田稲作農耕文化が、朝鮮半島を経て、あるいは東シナ海から直接に、九州北部に移民と共に伝わったと考えられている。[55][56][60]
九州北部に伝わった水田稲作文化は、急速に西日本を中心に近畿地方まで伝わるが、東日本には伝わらず停滞する時期がある。これは西日本の照葉樹林に比べて東日本の落葉広葉樹林の方が食品が豊富だったこと、西日本を中心に陸稲栽培を含む畑作が普及し水田稲作を受け入れやすかったこと、当時の稲が寒冷地である東日本に適していなかったことなどが考えられている。紀元前後になると寒冷地に適した稲の品種などにより、本州最北端の青森県まで水田稲作文化が伝わる。紀元前後にはまた鉄製の農工具が普及した。日本列島の水田稲作文化が普及した時代は、従来の縄文土器と比べて薄く整形されより高温で焼かれた弥生土器を伴っていて、弥生時代と呼ばれる。弥生時代は紀元前900年頃に始まり紀元後400年頃まで続いたとされる。一方で寒冷な北海道では、この時代には稲作文化がおよばず、縄文時代から続く採集や狩猟や漁撈による文化が続き、続縄文時代と呼ばれ紀元1000年頃まで続いた。また沖縄など南西諸島では、貝塚時代の後期とも呼ばれ、これは紀元1300年頃まで続いた。[55][56][60]
弥生時代の日本列島の様子は、漢書地理志で紀元前後には100あまりの小国が分立していたと記録されている。『魏志』倭人伝では紀元後239年に複数の首長国がある中卑弥呼の統治した邪馬台国が魏に朝貢し、また魏の使節が訪れたと記録されている。魏志倭人伝ではまた、「水に潜り貝や魚を採る」「稲や粟を栽培する」「温暖な気候で通年生野菜を食べる」「生姜や柑橘類、山椒、茗荷があるが料理に利用しない」「木や竹の器を用いて手で食べる」「飲酒を好む」など料理や食事に関する記録もある。[55][56][60]
アジアイネは、丈が高く熱帯に適し寒さに弱い長粒で粘りが少ないインディカ種と、丈が低く低温にも対応し短く丸みのある粒で粘りの多いジャポニカ種とに大別される。弥生時代に日本列島に伝わった稲はジャポニカ種であり、11世紀以降になってインディカ種が何度か持ち込まれたが現在に至るまで広く普及はしていない。 またインディカ種とジャパニカ種と共に、デンプンのひとつであるアミロースの含有量で、糯(もち)と粳(うるち)とも大別される。弥生時代に日本列島に伝わったイネは、中国で粳の栽培が先行したこと、記紀などに糯や餅が登場しないこと、糯という字が奈良時代の「正倉院文書尾張正税帳」が初出であること、などから粳であったと考えられている。しかし縄文時代の陸稲などは中国南部や東南アジアから糯が伝わり、弥生時代には糯と粳が混在していたという考えもある。[55][60][62]
水田稲作が普及しても農耕のみを基盤とした訳ではなく、農耕を行いながら従来の狩猟採集漁撈も行っていた。またプラント・オパールの調査から、全面的に稲を長期にわたって栽培した訳ではなく、キビ属なども栽培され生産量も多かったと考えられている。種子の遺物からも雑穀などと呼ばれるアワやヒエ、キビそして麦などの穀物や、豆やソバなどの準穀物も多い。またドングリなどの堅果類は稲を超えて多く出土する。猪と鹿は引き続き狩猟の重要な対象であったが、田畑を荒らす害獣駆除の側面もあったと考えられている。また鹿に対する猪の割合が増え、頭蓋骨の変化から猪が家畜化され豚となったものも含まれていると考えられている。豚に加えて牛や馬、鶏が持ち込まれ飼われていたが多くは出土せず、また鶏は食べる対象では無かった。イヌは猟犬としても用いられたが、埋葬されず解体痕などから食用の対象にもなった。豚や牛、馬などの飼育は、農耕の傍らの小規模なもので乳の利用などを目的としたものではなく牧畜ではない。漁撈では従来のものに加えて、水田や用水路などでコイやフナ、ナマズやドジョウ、タニシなどを対象とした淡水での漁撈が行われる。また内湾での漁撈では管状土垂を用いた網漁や蛸壺漁などが行われるが巨視的には衰退する。また東日本太平洋側や西北九州での外洋漁撈への特化拡散もみられる。農耕による環境や社会の変化が狩猟や漁撈にも変化をもたらしている。[55][56][60][57]
料理は米などの穀物を炊いた飯がある。弥生土器には外側に煤が内側に米粒が付いたものが出土することから、現在と同じ炊き干し法による飯である。米は臼と竪杵による精米で、現在販売されている籾殻をはずし果皮に覆われた玄米とは異なり、9分撞き程度であったと考えられている。また飯を唾液により糖化した口噛み酒や糀を利用したりして酒を醸造した。フナなどで塩辛や魚醤やなれずしなども作ったと考えられている。弥生土器の中には煮炊きに用いた鍋などだけでなく、食器の形状のものも出土する。[55][61][60][57]
遺跡からはドングリが最も多く出土するが、農耕が普及し米や粟(あわ)を主食にし、鶏獣肉、魚、海藻、野菜、山菜を副食にするという日本食の基本ができあがってきた[63]。家畜として導入された豚を食べることは忌避され、鶏も時告鳥(ときつげどり)として別格にあり、卵すら食用にしなかった[64]。次第に食事は、神事の御饌(しんせん/みけ)として供えられ、神事の後に直会(なおらい)にて神主や村人が一緒に食べ、神人供食の文化が起こった[21]。
3世紀に奈良県纒向遺跡に登場した巨大な王墓前方後円墳などの古墳は、各地に広がり古墳時代と呼ばれる。6世紀後半から7世紀にかけて水田の大規模な開発が近畿地方を中心に行われた。5世紀中期の高度な技術による鉄製U字型鋤先や曲刃鎌、6世紀後半に登場し代掻きに用いる馬鋤や7世紀に登場し耕起に用いる犂による牛馬の利用、7世紀初頭の大阪府狭山池などため池の築造や長大な堤防による河川の制御、7世紀後半の条里制の登場など、これらが背景にある。古墳の周囲や上に並べられた埴輪には、鹿や猪、犬などの狩猟を描いたもの、馬や鶏を形取ったものなど、支配者による狩猟や乗馬があった。朝鮮半島から伝わった須恵器には甑が多数発見されることから、米を蒸しておこわにしていたと考えられている。また従来の炉に変わって竈が住居に設けられる。[55][65][60][57]
『古事記』には豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらのちあきながいおあきのみずほのくに)、稲穂が実る国と記され、720年の『日本書紀』ではウケモチのお腹から稲が生まれたという神話が書かれている[66]。平安時代末期には強飯に代わり、現代の炊飯されたご飯と同じような姫飯(ひめいい)も食されるが普及はもっと後である[63]。
『日本書紀』に料理の記述がある。主食と副食による食事構成が定着し米や麦、アワなどをおこわや飯、粥にして食べていた。副食に用いる食品は、野菜、海藻、魚介類が用いられた。獣肉等は天武天皇の675年に、牛、馬、犬、猿、鶏の殺生禁止令が出され、表向きは食用とされなくなった。また猪と鹿は殺生禁止の対象とはならなかった。料理法としては、生物、焼物、煮物に加えて、茹物、羹、和え物、炒り物などがある。加工法としては干物、塩辛、漬物、寿司などがあった。遣唐使による唐の影響から、料理も影響を受ける。大饗(だいきょう/おおあえ)では、飯に膾や干物に加えて、干物や揚げ物を含む唐菓子、木菓子と呼ばれる果物などが台盤に並べられた。箸と共にスプーンも使われた。調味は食べる際に塩や酢、醤(ひしお)、酒で味を付けた。[65]
鎌倉時代には、禅宗と共に精進料理が伝わり、煮染や酒煎など調味の技法が発達する。 茶に加えて、豆腐、金山寺味噌など食品加工技術が伝わった。寺院の点心からうどんや饅頭、羊羹などが民間に広まった。[65]
現代の炊飯ご飯と同じような、姫飯(ひめいい)が広く普及する[63]。
大饗料理から派生した本膳料理が確立した。後の懐石料理や会席料理にも影響を与えており、出汁と合わせて日本料理の基礎が確立されたと評する論もある[67]。醤油が作られ用いられた[65]。鰹や昆布を使い、火を使った焼き物、煮物、汁物がたくさん出されるようになり、武家特有の料理が整い日本料理が誕生する[46]。
室町時代に料理書『四条流包丁書』が書かれたとされる。精進料理が発達し、出汁の概念が生まれた。安土桃山時代に来日したジョアン・ロドリゲスは著書『日本教会史』の中で「能」(実践的な教養)として「弓術・蹴鞠・庖丁」を挙げている。
懐石料理が成立する。茶の湯の発達に伴うものであり、千利休の影響が大きい。 南蛮船によりてんぷらやがんもどきなどの南蛮料理や、南蛮菓子(カステラやコンペイトウなど)が伝わった。[65]
江戸料理と呼ばれる[68]地元の材料を使用した料理が発展した[69]。
『絵本江戸風俗往来[70]』に「江戸市中町家のある土地にして、冬分に至れば焼芋店のあらぬ所はなし[71]」と焼き芋屋が大人気[72] であった。 初ガツオ・初ナスなど縁起を担ぐ事もあった[68]。 だしは鰹節を使い、醤油は濃口醤油[73] が使われた。 こしょうなど香辛料も利用され[74]、芳飯も鶏飯なども取り入れられ[74]、おじや、ねぎぞうすい[75] も食べられるようになった。
外食産業も栄えていた。文化8年(1811年)に江戸の町年寄が「食類商売人」の数を奉行所に提出した資料によると、煮売居酒屋(1808軒)、団子汁粉(1680軒)、餅菓子干菓子屋煎餅等(1186軒)、饂飩蕎麦切屋(718軒)、茶漬一膳飯(472軒)、貸座舗料理茶屋(466軒)、煮売肴屋(378軒)、蒲焼屋(237軒)、すしや(217軒)、煮売茶屋(188軒)、漬物屋金山寺(130軒)、蒲鉾屋(59軒)、醴(あまざけ)屋(46軒)、獣肉(9軒)という記録が残っている。煮売り屋は惣菜の持ち帰りすなわちの中食の役割も担っていた。
京都、大阪の料理は「上方料理」と呼ばれた。北前船で北海道産の昆布が輸送された。 瀬戸内の魚介類や近郊の野菜に加えて、全国の産物も集められた。そのため「諸国之台所」と評された。
それまで公家や武家などの階級、もしくは寺が独占してきた料理技法が出版という形で広く庶民に知れ渡った。『料理切形秘伝抄』、『料理物語』などさまざまな料理本が出版された。本格的な外食産業に関しては江戸時代初期には寺院が金銭を受取り料理を提供していたが江戸中期にかけて料理茶屋・料理屋が市中に数多く出現した[76]。
江戸後期には会席料理が登場する。本膳料理を簡略化し、酒の席で楽しむ料理として成り立った。
明治には、肉食が公に解禁され、江戸期には細々と食べられていた牛鍋などが流行した。
柳田國男は『明治大正史 世相篇』の中で「明治以降の日本の食物は、ほぼ三つの著しい傾向を示していることは争えない。その一つは温かいものの多くなったこと、二つは柔らかいものの好まるるようになったこと、その三にはすなわち何人も心付くように、概して食うものの甘くなってきたことである」という[77]。
明治には海外と交渉のある階層を中心に西洋料理が食べられるようになった。各地の西洋料理店(洋食店)では、西洋料理の他に、日本人の手で日本風に作り変えた料理が生み出された。家庭では銘々膳の風習にかわり、ちゃぶ台が使われるようになった。
明治から昭和にかけて国内外の中国人、朝鮮人との交流でそれらの影響のある料理も登場して日本独自の料理として定着していった。
戦後物資不足の中、アメリカからの食糧援助として小麦粉が大量に輸入され、学校給食でもパンが提供された。安価に大量供給された小麦粉により、お好み焼きなど小麦の粉食による鉄板焼き料理も発達した。
現在の日本料理は、寿司の一種であるカリフォルニアロールのように海外で発展するものもある。国内でも刺身や寿司に真空調理法や低温調理法を取り入れたり、食肉の応用で大型の魚類であるマグロやブリなどを対象に熟成させて用いるなど、世界や歴史、科学などの知見などを取り入れて発展しているものもある。[30]
ユネスコの無形文化遺産に登録された和食は、「多様で新鮮な食品とその持ち味の尊重」「栄養バランスに優れた健康的な食生活」「自然の美しさや季節の移ろいの表現」「正月などの年中行事との密接な関わり」である[78]。日本は「和食」を料理や調理法だけでなく「いただきます」や「もったいない」といった食事という空間に付随することがらも含めた「自然の尊重という日本人の精神を体現した食に関する社会的慣習」として提案[79][80][81]、年末年始における餅つきや御節料理、食育教育を中心にプレゼンテーションを行った[82]。
伝統的な形式が現在に伝わる料理を挙げる。
年中行事や冠婚葬祭など行事と結びついた日本料理も多い。餅や赤飯、団子や寿司など、季節や地域によらず広く共通するものもある。また色や姿形からタイやエビなどもよく用いられる[8]。
日常生活の汁物や惣菜においては、豆腐や麩、コンニャクやワカメなど広く共通して用いられる[47][48]。春のフキ味噌やニシン、夏の麦飯やはったい粉、秋の芋茎や干柿、冬の煮こごりや凍豆腐、新年の鏡餅や初竈、餅花など、料理の季語もある[6][83]。
郷土料理は日本の地方で古くから食べられてきた料理である。 アイヌ料理や沖縄料理や奄美料理、くさやや島寿司、皿鉢料理などもある。
特定の地域で太平洋戦争後に新たに食べられるようになったり、21世紀にかけて地域おこしを目的に開発されたりしたご当地グルメもある。
比較的新しいものは日本独自の料理だと広義にとれば和食であり、料理人が考案した伝統的料理だと狭義にとれば和食ではない[85]。
水菓子の柿
現在は日本のビールや日本のワイン、ジャパニーズ・ウイスキーなども作られ普及している。
日本の菓子は和菓子や駄菓子などがある。果物のことを水菓子とも言う。[6]
かつては生魚やゴボウの根など世界的には少数派の食材を使用するため、直江津捕虜収容所事件のような誤解も発生していた。現代では日本食の普及に伴い解消されつつある。
2007年に発刊された高級レストランガイド『ミシュラン』の東京版では、150軒の掲載店舗のうち、約6割が日本料理店であり、日本料理店も含めて、掲載された全ての店舗に1つ以上の星がついた(ミシュランの掲載店舗の中には、星が付かない店もあり、全ての店舗に星がついたのは、ミシュランでは初めてのことである)。また、150軒の掲載店舗に合計190以上の星が付き、それ自体も過去最高であった。
食事を通じて健康などに働きかけるマクロビオティック(正食)を通じて紹介された日本料理や調味料が多く、ヨーロッパやアメリカの一部で正食が評価された地域では、日本では一般に使われていない特殊な調理法や食品が使われている場合がある(味噌はパンに塗って食べる場合もある)。企業の大量生産品も一般的であるが、醤油、味噌、豆腐などは古来の製法で作られることも多く、日本で市販されるものとは風味や栄養価が異なる場合もある。アメリカではたまりも流通している。
農林水産省と外務省の調査・集計によると、海外にある日本食を提供するレストランの総数は約11万8000店(2017年10月時点)である[86]。2013年1月時点調査に比べ2倍以上。和食だけでなく、ラーメン店や日本風カレー店なども含む[87]。
2007年に、正統的な日本料理店に認証を与える「日本食レストラン推奨制度」を日本貿易振興機構(JETRO)がフランスで始めた。制度の目的として、道標の提供と日本食文化の認知度向上・普及・浸透、正統的日本料理レストランにチャレンジする機会の提供、日本の食品などジャパン・ブランド輸出促進を挙げている。制度の対象は、日本で一般に「和食」のカテゴリーに入る食事がメニューのほぼ全てを占めるレストランで、その料理は懐石、寿司、天ぷら、うなぎ、焼き鳥、そば、うどん、丼物、その他伝統の日本食(フランスで創作されたそれに準拠するものも含む)としている。[88]
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