「EU」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「EU (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
ブルガリア語: | Европейски съюз |
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スペイン語: | Unión Europea |
チェコ語: | Evropská unie |
デンマーク語: | Den Europæiske Union |
ドイツ語: | Europäische Union |
エストニア語: | Euroopa Liit |
ギリシア語: | Ευρωπαϊκή Ένωση |
英語: | European Union |
フランス語: | Union européenne |
アイルランド語: | An tAontas Eorpach |
クロアチア語: | Europska unija |
イタリア語: | Unione Europea |
ラトビア語: | Eiropas Savienība |
リトアニア語: | Europos Sąjunga |
ハンガリー語: | Európai Unió |
マルタ語: | Unjoni Ewropea |
オランダ語: | Europese Unie |
ポーランド語: | Unia Europejska |
ポルトガル語: | União Europeia |
ルーマニア語: | Uniunea Europeană |
スロバキア語: | Európska únia |
スロベニア語: | Evropska unija |
フィンランド語: | Euroopan unioni |
スウェーデン語: | Europeiska unionen |
(欧州連合旗) |
公用語 | |
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拠点都市 | ブリュッセル ストラスブール ルクセンブルク市 |
加盟国 | |
欧州理事会議長 (欧州大統領) | ドナルド・トゥスク |
欧州議会議長 | アントニオ・タイヤーニ |
欧州委員会委員長 | ジャン=クロード・ユンケル |
設立 - ローマ条約発効 - マーストリヒト条約発効 | 1958年1月1日 1993年11月1日 |
面積 - 総計 - 水面積率 | 世界第7位[4] - 4,381,376km2 - 3.08% |
人口 - 総計(2009年) - 人口密度 | 世界第3位[4] - 512,596,403人[5] - 117,3人/km2[5] |
GDP (PPP) - 総計 - 1人あたり | 2018年 (IMF)[6] - 22兆0308億USドル[5] - 43,120USドル[5] |
GDP(名目) - 総計 - 1人あたり | 2018年 (IMF)[6] - 18兆7692億USドル[5] - |
通貨 | |
時間帯 | UTC ±0 から +2 (DST: +1 から +3) |
ccTLD | .eu |
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欧州連合(おうしゅうれんごう、英: European Union、略称:EU)は、マーストリヒト条約により設立されたヨーロッパの地域統合体。
欧州連合では欧州連合条約の発効前に調印されていた単一欧州議定書によって市場統合が実現し、またシェンゲン協定により域内での国境通過にかかる手続きなどの負担を大幅に削減した。さらに欧州連合条約発効後によって外交・安全保障分野と司法・内務分野での枠組みが新たに設けられ、ユーロの導入による通貨統合が進められている。このほかにも欧州議会の直接選挙が実施されたり、欧州連合基本権憲章が採択されたりするなど、欧州連合の市民の概念が具現化されつつある。加盟国数も欧州経済共同体設立を定めたローマ条約発効時の6か国から、2013年7月のクロアチア加盟により28か国にまで増えている。
欧州連合の基本条約である欧州連合条約の正文は23言語で作成されており、そのため欧州連合の正式名称は23言語で表記される。略称としては、英語などでの表記の頭文字をとった EU があり、日本語圏においてもこの略称を使うことが多い。ただしフランス語、スペイン語など形容詞を後置する言語では UE という略称が用いられる。またアイルランド語では AE、エストニア語では EL、ラトビア語とリトアニア語では ES、キリル文字を使うブルガリア語では ЕС、ギリシア文字を使うギリシア語では ΕΕ となる。
日本語では、日本における欧州連合の代表機関である駐日欧州連合代表部や日本国政府が欧州連合という名称を使用している。また一部ではヨーロッパ連合という名称も用いる[注 1]。
ただし日本国内において、ソビエト連邦の名称問題のように一部の日本人研究者[1]はUnionに「連合」という訳語を充てることは不適切であると主張している。また欧州議会の最大会派だった欧州社会党も、同日本人研究者の指摘を受けて、日本語表記を「欧州同盟」に変更することに関する質問書を提出したことがあるが[2]、欧州委員会の側は研究社英和辞典の用例や、「連合王国 (United Kingdom)」および「国際連合 (United Nations)」などの例を挙げながら、変更する必要はないと返答した。
ユゼフ・ピウスツキの海洋間連邦 (Intermarium) 、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの国際汎ヨーロッパ連合、ナチス・ドイツの新ヨーロッパ (Das neue Europa) やウィンストン・チャーチルのヨーロッパ合衆国構想など、ヨーロッパを統合する試みは多々あったが、それらに共通する点として、ソ連を仮想敵国とした反共主義があった。
アメリカは、1948年に設立された統合ヨーロッパのためのアメリカ委員会(英語版)を通じてヨーロッパの統合を推し進めるための資金提供を行ってきた。例えば、1958年、ヨーロッパ統合の要を成していた欧州運動の資金の53.5%はこの委員会からきたものである[3]。
ロベール・シューマンは1950年5月9日にシューマン宣言を発し、その中で経済と軍事における重要資源の共同管理を掲げ、欧州石炭鉄鋼共同体設立条約が策定され、1952年7月23日に欧州石炭鉄鋼共同体(英: ECSC)が設立された。
欧州石炭鉄鋼共同体が設立され、1957年には経済分野での統合とエネルギー分野での共同管理を進展させるべくローマ条約が調印され、翌年1月1日に欧州経済共同体(英: EEC)と欧州原子力共同体(英: Euratom)が発足した。当初これら3共同体は個別の機関・枠組みで活動していたが、1つの運営機関のもとでそれぞれの目的を達成することでヨーロッパの統合を進めるべく、1965年にブリュッセル条約が調印され、1967年にヨーロッパ(:諸)共同体(英: EC)という1つの枠組みの中に3つの共同体をおくことで統合の深化が図られた。
1973年1月1日、それまでのフランス、西ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクの6か国に加えて、イギリス、アイルランド、デンマークが欧州諸共同体に加盟する。また1981年1月1日にはギリシャが、1986年1月1日にはスペインとポルトガルがそれぞれ欧州諸共同体に加盟する。この間に議題にあがったのが、いかに経済統合を進めていくか、というものである。加盟国間における政策や法制度の違いは貿易の自由化を妨げており、世界における市場競争の障害となっているという意見が出るようになったことを受けて、欧州経済共同体では域内の単一市場の設立が持ち上がってきた。また、1984年にはイタリアの欧州議会議員アルティエロ・スピネッリが提出した欧州連合設立条約草案を欧州議会が可決させたことは大きな後押しとなった[4]。これに対応するべくドロール委員会のもとで1986年に単一欧州議定書が調印され、ローマ条約を大幅に修正し、経済分野に関する政策を原則として欧州経済共同体が統括することで共同市場設立が掲げられた。また域内における人、商品、サービスの移動の自由を図るべく、1985年にシェンゲン協定が調印され、加盟国間の国境という障壁を除去していくことが盛り込まれた。
1989年になると、レティンゲルの後半の予言が的中した。ポーランドの民主化を皮切りに[独自研究?][要出典]、東ヨーロッパ諸国における政変が相次ぐなか、鉄のカーテンが劇的に取り払われていき、1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊、翌年10月3日にドイツが再統一された。このさい東ドイツで復活した5州が西ドイツに編入され、これに伴って欧州諸共同体は旧東ドイツにもその領域を拡大させた。東ヨーロッパ諸国の共産主義体制の崩壊は欧州諸共同体にとっても重大な影響を及ぼし、これら諸国が自由主義陣営につくことが想定され、ヨーロッパの統合は政治の分野においても協力関係を強化することが求められるようになった。そこで1992年2月7日に欧州連合条約が調印され、翌年11月1日に欧州連合が発足した。
欧州連合では、経済分野に関して超国家的性格を持つ欧州共同体の枠組みのほかに共通外交・安全保障政策、司法・内務協力という加盟国政府間の協力枠組みを新設、いわゆる「3つの柱」構造のもとでヨーロッパのさらなる統合が図られ、またその後、欧州経済共同体設立条約から改称された欧州共同体設立条約と欧州連合条約は1999年発効のアムステルダム条約や2003年発効のニース条約で修正や一体化がなされ、統合の深化が進められた。
1995年1月1日にはオーストリア、スウェーデン、フィンランドが、2004年5月1日には旧社会主義陣営の東ヨーロッパ諸国を含む10か国が、2007年1月1日にはルーマニアとブルガリアがそれぞれ欧州連合に加盟する。将来における拡大についても、北マケドニアやモンテネグロ、セルビアなどの、2005年に加盟したスロベニアおよび2013年に加盟したクロアチア以外の旧ユーゴスラビア連邦構成国やアルバニア、ジョージアやウクライナなどのロシアと距離を置く東欧諸国、国土の一部がヨーロッパに属するトルコなどで加盟の是非に関する協議や、実際の加盟に向けた実務的な交渉が進められている。
また、経済の分野においては次の段階として通貨統合が進められ、1998年5月1日に欧州中央銀行が発足、翌年1月1日には単一通貨ユーロが導入される。また外交分野においては共通外交・安全保障政策のもとで、北大西洋条約機構と協調する形でユーゴスラビア紛争の対応などにあたってきた。さらに2000年には欧州連合基本権憲章が公布されている。
そのような情勢の中で欧州連合は新たな加盟国の受け入れ態勢の構築が求められ、その一方で機構の肥大化に伴う組織の効率性低下が問題となり、これらを受けて従来の基本諸条約を廃し、一本化した形の基本条約として「欧州憲法条約」が策定され、2004年10月28日に同条約は調印された。ところが欧州憲法条約の超国家主義的な性格に対して、個別の加盟国の主権が脅かされるのではないかという不安から欧州懐疑主義が起こり、条約批准の是非を問う国民投票の結果、2005年5月にフランスで、翌月にはオランダで批准に反対するという意思が示された。
欧州憲法条約が拒否されるという事態を受けて各国の市民に是非を問う国民投票が中断された。その間、欧州憲法条約の中身を引継ぐ新たな基本条約の作成が合意され、2007年12月にリスボン条約として調印された。
リスボン条約は2009年1月の発効を目指して加盟国内での批准手続きが進められているが、2008年6月にアイルランドで実施された、リスボン条約を受け入れるのに必要な憲法改正の是非を問う国民投票で反対票が賛成票を上回るという結果が出された。発効のためには全加盟国の批准を要するリスボン条約も窮地に立たされた事態について、直後に開かれた欧州理事会において、ほかの加盟国での批准手続きは進めていくことが確認された一方で、2008年後半の議長国を務めたフランスはアイルランドに国民投票の再度の実施を求めた。その後2008年12月に行われた欧州理事会の会合でアイルランドは2009年秋ごろまでに再度の国民投票を実施すると表明し、これを受けて欧州理事会はリスボン条約は2009年末までの発効を目指して残る手続きを進めていくことで合意された。後アイルランドは2009年10月に再び実施された国民投票で賛成が反対票を大きく上回り、憲法改正・条約批准が決定した。批准手続きを完了させていなかった加盟国も同年11月までに必要な手続きを完了させ、リスボン条約は同年12月1日に発効した。
このリスボン条約は欧州理事会議長を再定義し、実質上の欧州連合大統領(EU大統領)とした。2009年12月1日よりベルギーのヘルマン・ファン・ロンパウが初代議長として就任した。2014年12月1日よりシコルスキとレティンゲルの故郷ポーランドのドナルド・トゥスクが第二代議長として就任する。
2016年6月24日、イギリスの欧州連合離脱是非を問う国民投票において離脱支持票が過半数となった。この結果を受け、イギリスは2017年3月29日欧州理事会に離脱を通告し、2年を期限とする離脱手続きが開始された。
署名 発効 条約 |
1948 1948 ブリュッセル |
1951 1952 パリ |
1954 1955 パリ協定 |
1957 1958 ローマ |
1965 1967 統合 |
1986 1987 単一議定書 |
1992 1993 マーストリヒト |
1997 1999 アムステルダム |
2001 2003 ニース |
2007 2009 リスボン |
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欧州諸共同体 | 3つの柱構造 | |||||||||||||||||||
欧州原子力共同体 | → | ← | ||||||||||||||||||
欧州石炭鉄鋼共同体 | 2002年に条約失効・共同体消滅 | 欧州連合 | ||||||||||||||||||
欧州経済共同体 | 欧州共同体 | |||||||||||||||||||
→ | 司法・内務協力 | |||||||||||||||||||
警察・刑事司法協力 | ← | |||||||||||||||||||
欧州政治協力 | → | 共通外交・安全保障政策 | ← | |||||||||||||||||
組織未設立 | 西欧同盟 | |||||||||||||||||||
2010年に条約の効力停止 | ||||||||||||||||||||
欧州連合の統合史を時期によって区分するならば次のように分けられる。[5]
欧州経済協力機構(OEEC)、北大西洋条約機構(NATO)、欧州審議会(Council of Europe)などの設立に象徴されるような、欧州の国際的な連携体制の組織化の時代。アメリカがこの動きを主導した。
統合の始動と挫折の時代。1952年に欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が誕生[6]、これによって国際的な部門統合の動きが始まった。これに対して、欧州防衛共同体(EDC)や欧州政治共同体が提唱されたものの、両者とも実現には至らなかった。しかし、メッシーナ会議・スパーク報告によって統合の再出発が図られ、欧州経済共同体(EEC)と欧州原子力共同体(EURATOM)が設立された。
フランスのシャルル・ド・ゴール大統領の影響が大きい時代。欧州統合の国家連合的性格が強まった時代。
1970年の欧州政治協力(EPC)の発足、経済通貨同盟(EMU)の試行や、1979年の欧州通貨制度(EMS)の設立、それに伴う欧州通貨単位(ECU)の設置などに見られるように、欧州統合の進展は見られたものの、2度の石油危機もあり、それぞれの欧州国家は内向きであった時代。
1985年に域内市場白書が採択され、1986年に単一欧州議定書が調印された。非関税障壁の撤廃などにより巨大な市場が誕生し、巨大な市場での自由競争が欧州に現出した。1993年にはマーストリヒト条約発効によって、欧州連合(EU)が誕生。
2005年5月29日のフランスにおける欧州憲法条約否決や、2016年6月23日のイギリスにおける欧州連合離脱国民投票における離脱派の勝利に見られるような欧州統合拡大の質を問う時代。
欧州連合の前身である欧州共同体は当初、6か国が加盟して発足したが、2013年7月にクロアチアが加盟したことにより以下の28か国が欧州連合に加わっている。
1 北キプロス・トルコ共和国は含まれない。またグリーンラインについては扱いが定まっていない。2 グリーンランドは1985年に離脱。フェロー諸島は原則として欧州連合に含まれない。 上記以外にも海外領土などでは特別な地位にあるところが存在する。欧州連合加盟国の特別領域を参照。
マーストリヒト条約第49条では、欧州連合に加盟を希望する国はヨーロッパの国であることと、自由、民主主義、人権の尊重、法の支配といった理念を尊重していることが挙げられている。また実務面では1993年に示されたコペンハーゲン基準を満たす必要がある。これ以外にもアキ・コミュノテールを受け入れられるような法整備がなされていることなどが求められる。欧州委員会は加盟を希望する国に対してこれらの基準を満たしえるかどうか調査を実施し、その報告を欧州理事会に提出している。欧州理事会はその報告書をもとに加盟候補国として具体的な協議を行うか判断している。その後加盟するとなった場合には、加盟予定国は欧州連合との間ではなく、既存加盟国との間で加盟条約を調印し、条約の発効をもって正式に加盟する。
2016年6月下旬、イギリスにて実施された欧州連合離脱是非を問う国民投票において離脱賛成が過半数(52%)を占め、EU離脱の方向性が示された。背景にはEU政策に対するイギリスの不信、イギリスへの移民流入問題(en)があるとされる[7]。
これに伴い離脱に反対していたデーヴィッド・キャメロン首相は辞任し、後任にはEU残留派ではあったものの残留派のキャンペーンには消極的であったテリーザ・メイが就任し、メイ内閣(保守党)の閣僚の中でも外務大臣にEU脱退派の代表格の一人であったボリス・ジョンソン前ロンドン市長が任命された。また、EU離脱担当大臣(初代:デイヴィッド・マイケル・デイヴィス)の閣僚ポストが新設され、行政機関としてEU離脱省が新設された。
以降、2019年3月29日のEU離脱に向けてイギリスとEUは協議を続けたが、北アイルランドの国境管理問題に決着がつかず、離脱予定日の半月前になっても離脱協定が結ばれないという事態に陥る。2019年3月14日にはイギリス下院において条件付きながら離脱期日を3カ月延長する動議が可決されているが、EUとの協議は未だ妥結に至っていない。
欧州連合 |
欧州連合の政治 |
欧州連合の最高意思決定機関は、全加盟国の政府の長と欧州委員会委員長、及び大統領にも相当するとされる常任議長による欧州理事会である。欧州理事会は、1年に最低4回の公式会合と、不定期の非公式会合を開き、そこで欧州連合の方針や政策の大局を決定する。また、常任議長は、欧州委員会委員長とともに、対外的に欧州連合を代表する。一方で個別・具体的な政策の詳細を定めるのは、加盟国の閣僚からなる欧州連合理事会(閣僚理事会、あるいは単に理事会とも呼ばれる)である。欧州連合理事会は各分野の政策ごとに分かれており、それぞれの担当閣僚が出席している。
欧州連合理事会でまとめられた政策案は欧州議会に諮られる。欧州議会は5年に1度の欧州連合市民による直接選挙(普通選挙)で選出される750名[注 3]の議員で構成されている。2009年発効のリスボン条約により欧州議会が行う共同決定手続きが適用される範囲が広がり、一部の例外を除くほぼすべての政策分野で適用されることになる。ただし、一部分野では諮問手続きが適用される。また、欧州議会は非義務的支出だけでなく欧州連合の予算全般にわたっての権限も新たに得ることになる。
また一部の分野の政策決定手続きにおいては、地方政府の代表らからなる地域委員会やさまざまな企業団体や労働組織の代表らからなる経済社会評議会の関与が求められている。
欧州連合の政策執行を担当するのは欧州委員会である。欧州委員会は加盟国からそれぞれ1人ずつ出される委員で構成され、政策分野ごとの担当が与えられている。また委員長は欧州理事会に出席するほか、対外的に欧州連合を代表するという場面があり、たとえば主要国首脳会議においてもオブザーバとして出席する。欧州委員会は政策分野ごとに総局と呼ばれる、国内政府の省庁に相当する組織を持つ。
欧州司法裁判所は基本条約やEU法の解釈・適用を判断する機関である。欧州司法裁判所は加盟国政府による基本条約やEU法による義務不履行に対する制裁措置を決定したり、また第一審裁判所での控訴審を担ったりしている。第一審裁判所はおもに企業や個人などが欧州連合の諸機関の行為に対する不服の訴えを扱っている。このほかにも欧州連合の諸機関とその職員とのあいだでの紛争を扱う欧州連合公務員裁判所がある。
欧州会計監査院は欧州連合の諸機関の業務や予算の執行が適切であるかを監査する役割を担っている。
リスボン条約により、欧州連合の3つの柱構造は廃止された。これにより、共通外交・安全保障政策も廃止されている。リスボン条約下では、共通外交・安全保障政策上級代表職と欧州委員会の対外関係・欧州近隣政策担当委員職が統合された、欧州連合外務・安全保障政策上級代表が新設され、欧州対外行動局を率いることになっている。
これまで述べてきた以外にも専門機関が設置されており、欧州連合の基本条約の目的達成のために機能している。
IMFによると、2010年の欧州連合のGDPは16兆1068億ドル(約1300兆円)である。アメリカのGDPをやや上回っており、世界全体の約26%を占めている[8]。 欧州連合ではローマ条約や単一欧州議定書、シェンゲン協定により、国境管理や加盟国間の制度の違いといった障壁が除去されていき、域内における労働者、商品、サービス、資本の移動の自由が確保されている。またローマ条約を根拠とする独自の競争法体系が整備されている。また食糧の安定供給確保を目的とした共通農業政策により欧州連合は農業部門に対して毎年の予算の大部分を支出している。このような経済施策は欧州委員会が主導しており、加盟国政府は欧州委員会の決定に従うことが求められている。さらに通貨統合も進められており、1999年には単一通貨ユーロが導入され、2014年1月までにユーロ圏は18か国にまで広がっている。欧州連合の金融政策を担うのは欧州中央銀行と加盟国の中央銀行で構成される欧州中央銀行制度である。またユーロ未導入の国の通貨については欧州為替相場メカニズムにより、対ユーロ相場の変動幅が一定以内に制限されている。このほかにも地球温暖化対策の措置を進めており、2005年には域内排出量取引制度を導入した。
貿易面を見ると、域外への輸出額は2005年で1兆3300億USドル、機械、自動車、航空機などを輸出している。主な輸出先としてはアメリカ、スイス、ロシア、中国が挙げられる。一方で域内への輸入額は1兆4660億USドルで、主な輸入先はアメリカ、中国、ロシア、日本となっている[9]。
一方で欧州連合では域内における格差も目立つ。2007年において欧州連合全体で32,300 USドルだった加盟国別の1人あたりGDP (PPP) は、ルクセンブルクが80,500 USドル、アイルランドが43,100 USドルだったのに対して、ブルガリアが11,300 USドル、ルーマニアが11,400 USドルとなっており、2004年以降に加盟した諸国はすべて欧州連合全体の数値を下回っていた[10]。実質経済成長率の比較では、スロバキアで10.40%を記録した一方でハンガリーでは1.30%に留まり、欧州連合全体では3.00%だった[11]。
表はEU予算全体に対する各国からの負担額と予算執行による各国への支出額である。政策支出額には、EUの地域間格差解消のための「補助金」に当たるEU構造基金(英語版) (EU Structural Funds) が含まれる。
加盟国がEU予算のために支払う負担額 | ||||
---|---|---|---|---|
加盟国 | 億ユーロ | |||
ドイツ | 293.7 | |||
フランス | 232.9 | |||
イタリア | 171.6 | |||
イギリス | 170.6 | |||
スペイン | 113.6 | |||
オランダ | 65.5 | |||
ベルギー | 52.9 | |||
ポーランド | 42.1 | |||
スウェーデン | 42.1 | |||
2013年度 |
加盟国にEU予算から支払われる金額(政策支出額) | ||||
---|---|---|---|---|
加盟国 | 億ユーロ | |||
ポーランド | 161.7 | |||
フランス | 142.3 | |||
スペイン | 137.5 | |||
ドイツ | 130.5 | |||
イタリア | 125.5 | |||
ギリシャ | 72.1 | |||
ベルギー | 72.0 | |||
イギリス | 63.0 | |||
オランダ | 22.6 | |||
2013年度 |
2008年のリーマン・ショック以降、EU加盟国の失業率の悪化は顕著であり、EUの平均失業率は2012年以降10%を超えている。 ノルウェーやスイスのようなEU非加盟国の失業率はEUよりもはるかに低い。アイスランドは2008年にデフォルトになり失業率が悪化したが、通貨の暴落で 輸出増で景気を回復させ、失業率は改善している[12]。2014年のアイスランドの失業率はEUよりもはるかに低い。
米国では失業率が10%近くまで上昇したが、ベン・バーナンキら主導のFRBが大規模な金融緩和を行い、緩やかに失業率を改善させてきている [13]。2014年時点での米国の失業率は約6%であり、ノルウェーやスイスよりは高いがEUよりは低い。 2013年、スイスの世界経済フォーラムにて、アンゲラ・メルケルは米国と日本が金融政策を経済競争力を増幅する手段としていることに懸念を表明した。メルケルは、「中央銀行は政治的過ちの尻拭いや競争力増幅のために存在するものではないと我々ドイツ国民は信じている」と述べた[14]。 この発言の2年後にECBが量的緩和を始める。
ノーベル賞経済学者ジェームズ・ミードは、中央銀行は物価の安定を総需要管理の目標とすべきではないと唱える。間接税増税や負の交易条件ショックで物価に上昇圧力がかかる局面では、中央銀行の物価安定政策は労働者の賃金低下でもってその物価上昇を差し引きゼロにさせるからである[15]。短期的には労働需要は非弾性的であるから、その局面では物価安定政策が原因で全ての産業セクターで失業が起こると考えられる。
ミードの分析どおり、欧州中央銀行の物価安定政策によって加盟国が高い失業率を記録している。例えば2014年の段階でスペインの失業率は25%であり、20%以上の失業率が2017年までつづくと予測されている[17]。同時期のスペインの若年失業率は53.8%である[18]。 また2014年6月のギリシャの失業率は27%であり、OECDの経済予測によれば2016年まで27%前後を推移するとみられている[19]。2014年7月の、ユーロ圏の失業率は11.7%となっている[16][18]。
経済学者のポール・クルーグマンは、ドイツが欧州連合の経済政策に悪影響を及ぼしているとして以下のように批判している。クルーグマンに拠れば、欧州連合最大の経済大国であるドイツはインフレを毛嫌いし、欧州中央銀行がドイツに影響を強く受けた政策をとっていることが[20]、欧州における低いインフレの元凶となっている。スペイン、ポルトガルなど南欧諸国はドイツなど大国との労働コスト格差を埋めるために賃金を下げざるを得ない。もちろんその格差の解消はドイツが高い人件費、すなわち高いインフレ率を許容すれば可能である[21][22]。だがインフレを良としないドイツはそれを許さない。結果として、名目賃金の下方硬直性のために、それら南欧諸国の失業率は高止まりすることになる。それに加え、ドイツは1990年代のドイツの経済的価値観を他のEU加盟国に押し付け、それらの国に緊縮財政政策を強いる傾向があると、クルーグマンは述べている[23]。また、欧州議会に権限がなく、欧州委員会が政治の決定権を握っていることから欧州連合を第四帝国と捉えることもある。
イギリスの労働党所属のジェレミー・コービンもユーロによって「銀行員達の欧州」(bankers' Europe)を加盟国に課す状況になると考えていた。1993年のマーストリヒト条約発効に先立ち、コービンはECB設立は欧州の国家が独自の政策をとる能力を弱めるだろうと予言していた[24]。
「マーストリヒト条約の中心はECBの設立だ。国家と国家経済から独立したECBは銀行員たちによって運営され物価の安定だけがECBの政策となる。それは労働党政権やその他の政権が実現させたい社会的目標を下げてしまうだろう。マーストリヒト条約は米国のような連邦政府への道にならないどころか逆の方向に加盟国を誘導することになる。外交政策では、選挙で選ばれてもいない者で構成される委員会が外交政策を加盟国に押し付けそれらの者のために戦うことになるだろう。」と述べていた[24]。
言語 | ネイティブ | 合計 |
---|---|---|
英語 | 13% | 51% |
ドイツ語 | 16% | 27% |
フランス語 | 13% | 24% |
イタリア語 | 12% | 16% |
スペイン語 | 8% | 15% |
ポーランド語 | 8% | 9% |
ルーマニア語 | 5% | 5% |
オランダ語 | 4% | 5% |
ギリシャ語 | 3% | 4% |
ハンガリー語 | 3% | 3% |
ポルトガル語 | 2% | 3% |
チェコ語 | 2% | 3% |
スウェーデン語 | 2% | 3% |
ブルガリア語 | 2% | 2% |
スロヴァキア語 | 1% | 2% |
デンマーク語 | 1% | 1% |
フィンランド語 | 1% | 1% |
リトアニア語 | 1% | 1% |
クロアチア語 | 1% | 1% |
スロヴェニア語 | <1% | <1% |
エストニア語 | <1% | <1% |
アイルランド語 | <1% | <1% |
ラトビア語 | <1% | <1% |
マルタ語 | <1% | <1% |
Survey 2012.[25] |
欧州委員会委員長は主要国首脳会議にオブザーバとして出席するなどの対外的な代表を務めることがあり、また欧州委員会にも対外関係や安全保障の担当委員がいるが、このほかにも外交・防衛分野ではアムステルダム条約によって導入された共通外交・安全保障政策上級代表がいる。共通外交・安全保障政策上級代表は加盟国を代表して業務の調整や外交交渉を行う。
欧州連合の対外関係の基本的な枠組みは3つの柱のうち、第2の柱である共通外交・安全保障政策であるが、第1の柱である欧州共同体の分野の政策が欧州委員会の主導の下で進められるような超国家主義的であるのに対して、共通外交・安全保障政策は加盟国が主導するような政府間主義が採られている。
具体的な関係を見ていくと、欧州連合に加盟していないノルウェー、アイスランド、リヒテンシュタインとは欧州経済領域を通じて単一市場への参入を受け入れているほか、スイスも欧州自由貿易連合やそのほかの協定を通じて単一市場にかかわっている。またアンドラ、バチカン、モナコ、サンマリノではユーロが使われており、経済における結びつきを強めている。さらにヨーロッパの旧植民地であるアフリカ・カリブ海・太平洋諸国ともコトヌー協定に基づく協力関係を構築している。
欧州連合ではユーゴスラビアを構成していた諸国について、将来的に欧州連合に加盟することを念頭に置いて対応している。すでに欧州連合に加盟したスロベニア、クロアチアのほか、セルビア、モンテネグロ、北マケドニアを加盟候補国として欧州連合に加わるための具体的な状況整備を進めている。ユーゴスラビア紛争では欧州連合はその対応に失敗しているが、その後の地域の安定に向けて安定化・連合協定を結ぶなど、積極的に取り組んでいる。またソビエト連邦を構成していた国のうち、独立国家共同体 (CIS) に加盟していないエストニア、ラトビア、リトアニアが2004年5月に欧州連合に加盟しているほか、バラ革命が起こったジョージア(旧グルジア)やオレンジ革命が起こったウクライナ、2007年EUに加盟した隣国ルーマニアとの関係が深いモルドバなどいくつかの国がロシアと距離を置く一方で欧州連合との関係を強めており、将来的な加盟も模索している。
トルコは1970年代から欧州連合への加盟を求め、また欧州理事会でもトルコを加盟候補国にしているが、トルコの人口規模の大きさやイスラム教国であること、近年のイスラム原理主義勢力の台頭、トルコ系移民の多さを問題視する向きがあること、クルド人などの国内少数民族の権利の不徹底、キプロス問題で加盟国のキプロス・ギリシアと軍事的緊張状態にあることなどによりハードルは高い。イスラエルとは緊密な関係を築いており、欧州連合の一部の政治家からはイスラエルの欧州連合加盟に賛成の意見が出されるほどである。一方でパレスチナ問題にも欧州連合は積極的にかかわっており、中東カルテットの一角を担っている。このほかにも西アジアや北アフリカの地中海沿岸諸国とは欧州・地中海パートナーシップや、欧州近隣政策などの枠組みを通じて関係を深めているほか、2008年に発足が決定された地中海連合では多くの分野での統合や協力関係の構築を進めることを目指している。
また、2009年5月には東欧諸国との関係強化を目指す常設協議「東方パートナーシップ」を創設する。対象国はアルメニア、アゼルバイジャン、ベラルーシ、ジョージア(旧グルジア)、モルドバ、ウクライナである。
軍事・安全保障面では欧州安全保障防衛政策が策定され、また1948年調印のブリュッセル条約で設立された西欧同盟を事実上吸収し、ペータースベルク・タスクの理念のもと、とくに平和維持や人道支援の分野での加盟国間の協力関係を強化し、実際にこれらの活動を目的としてボスニア・ヘルツェゴビナやコソボなどに部隊を派遣している。
シューマン宣言が発表された5月9日について、1985年にミラノで開かれた欧州理事会で「ヨーロッパ・デー」とすることが決められた。また欧州評議会は1955年に青地 (Reflex Blue) に金色 (Yellow) に輝く12個の星の円環を描いた旗を「欧州旗」とし、ヨーロッパにおける機関に対してこの旗をシンボルとして使うことを進めていたが、1983年に欧州議会がこれに応じ、また1985年のミラノ欧州理事会において「欧州連合の旗」とすることが採択された。このとき同時にベートーヴェンの交響曲第9番第4楽章『歓喜の歌』を「欧州連合の歌」とすることも合意された[28]。
ユーロ紙幣はデザインが統一され、ヨーロッパ風の建築物が描かれていたり、ヨーロッパの地図が描かれていたりしている。ユーロ硬貨の表面もデザインが統一されており、いずれもヨーロッパの地図が描かれている。このほかにも欧州連合加盟国で発行されるパスポートにも、欧州連合を意味する表記が発行国の公用語で印刷されている。欧州連合では欧州文化首都といった活動や欧州連合基本権憲章といったものを通じて、市民に「ヨーロッパの市民」、あるいは「欧州連合の市民」という概念を定着させようとしている。
一方で欧州連合では In varietate concordia(ラテン語で「多様性における統一」の意)を標語として掲げ、この語句は欧州連合における公用語とされる23言語で表現されている。この標語からもわかるとおり、約5億人の人口を有する欧州連合においても文化や言語の多様性は尊重されるべきものとして扱われている。また、欧州連合の関連機関では文書やウェブサイトを複数の言語で作成している。
2007年にブルガリアとルーマニアが、2013年にクロアチアが加盟したことにより、欧州連合の加盟国数は28に達した。従来の基本条約における制度では、欧州委員会の委員は加盟国から1人ずつ出し、また無任所としないということになっていたため、委員の数も28にまで増え、担当分野も分掌が繰り返された。その結果、組織が肥大化した欧州委員会の部局間でセクショナリズムが激化し、業務効率が低下した。また立法手続きにおいても欧州連合理事会における政策決定過程が大国有利であるという批判や、全会一致を要する案件となる対象分野が多く、意思決定に時間がかかるといった難点を克服するため、またそのような政策決定に対する欧州議会の関与を強化するための改革が求められていた。そのような改革を盛り込んだのが2004年11月にローマで調印された欧州憲法条約であったが、その超国家主義的な性格が敬遠され、フランスとオランダの国民投票で批准が拒否されるという事態となり、結局のところ同条約は発効が断念された。その後2007年12月に、欧州憲法条約の内容をそっくり引継ぐリスボン条約が調印され、リスボン条約は2009年12月1日に発効した。
従来の基本条約では加盟国数の上限を27とすることが想定されていたため、リスボン条約では将来の新規加盟の受け入れ態勢を整備するという目的も含まれている。2005年、欧州理事会はクロアチアとトルコを加盟候補国とすることを決定し、その後加盟に向けた協議が開始されている。クロアチアとEUとの加盟交渉は2011年6月に終了し、2013年にはクロアチアが28番目の加盟国となった[29]。
北欧のアイスランドは2009年7月23日に正式な加盟申請を行い、加盟候補国として承認された[30]。加盟交渉は進んでいたが、政府は2014年秋にEU加盟の国民投票が行われるまで、加盟交渉の凍結を表明した。結局国民投票は行われず、2015年3月12日、アイスランドは加盟申請を取り下げた[31]。
2019年2月現在、トルコ、北マケドニア、モンテネグロ、セルビア、アルバニアの5か国は正式な加盟候補国として認定されている[32]。
トルコに対しては欧州連合の価値観を共有することができるかといった疑問や、北キプロス問題、アルメニア人虐殺問題がある。2013年6月26日、約3年ぶりに加盟交渉を再開することを決定していたが、市民による反政府デモに対し、強硬姿勢を続ける同国政府への対応の懸念から、10月以降への加盟交渉の延期を発表した。
北マケドニアは2006年に加盟候補国となっている(当時の国名は「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」)。長らく隣国ギリシャとの間で国名改称問題を抱えており加盟に際する課題となっていたが、2018年6月12日に国名を北マケドニア共和国とすることでギリシャと合意し[33]、両国の議会承認等を経て2019年2月12日に改名が発効した[34]。
モンテネグロは2010年12月に加盟候補国として承認され、2011年10月から本格的な加盟交渉が開始された[35]。
セルビアはボスニア・ヘルツェゴビナ内戦の大物戦犯であるラトコ・ムラディッチとゴラン・ハジッチ(英語版)の拘束が評価されてはいるものの、2008年にセルビアから一方的に独立を宣言したコソボ政府との関係改善および政治対話の進展が加盟交渉開始の条件とされており[35]、正式な加盟申請を行った2009年12月22日から2012年2月の段階まで加盟候補国に認定されていなかった[36]が、2012年3月1日のEU首脳会議において正式な加盟候補国に承認され[37]、2013年4月22日にはコソボと関係正常化で合意し、2014年1月21日に加盟交渉を開始した[32]。
アルバニアは2009年4月28日にEUに加盟を申請し、2014年6月27日に加盟候補国として承認された[32]。
ボスニア・ヘルツェゴビナとコソボは潜在的加盟候補国と位置づけられている。
ボスニア・ヘルツェゴビナは2016年2月15日、EUに加盟申請を行った[32]。
コソボは2016年4月1日、EUとの安定化・連合プロセス協定を発効した[38]。ただしコソボの国家承認については既存加盟国の間で対応が分かれている。
旧ソ連の東欧地域にあるモルドバもEU加盟を目標とし、2014年7月27日にEUとの連合協定を締結させており、2年後の2016年7月1日からその連合協定が正式に発効されている[39]。2013年6月25日、ナタリア・ゲルマン副首相兼外務・欧州統合相は、2014年中に欧州連合と自由貿易協定 (FTA) ならびにビザの免除に向けた連合協定の署名を行うことを発表し、仮調印を行った。
2018年2月6日、欧州委員会は旧ユーゴスラビア構成国を中心とする西バルカン地域6か国について、EU加盟に向けた支援を強化する方針を発表した。支援の対象となる6か国は、加盟候補国の北マケドニア(当時の国名は「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」)、モンテネグロ、セルビア、アルバニアと、潜在的加盟候補国のボスニア・ヘルツェゴビナとコソボである。また、セルビアとモンテネグロに関しては早ければ2025年の加盟を目標とすることを示した[40]。
2015年11月29日、アンゲラ・メルケルがEU・トルコ間で事前サミットを主催し多くのシリア難民をEUに受け入れる提案を行った。 そしてEUは、トルコからの移民流入の数を制限する措置と引きかえにトルコをEUへ加入させる道を開くことで合意に達した。 トルコ首相アフメト・ダウトオールはトルコとEUの新しい関係の歴史的な始まりだとした[41]。
この協定によってトルコはエーゲ海のパトロールと人身売買を行うギャング達の取り締まりを強化し、EU加盟国に受け入れを拒否された移民をトルコに連れ戻すことになっている。その見返りにEUは資金30億ユーロをトルコに提供し、トルコのEU加盟の公開交渉のためのサミットを開いていくことで合意した[41]。 EU首脳らはトルコのEU加盟に近道はないことを明確にしているものの、トルコ国民がEUにビザ無しで行くことを可能にするように努力していくことを誓っている。ダウトオールは「トルコのEU加盟は2016年に速度を増し、近い将来現実のものとなるだろう」と述べている[41]。
ダウトオールは難民危機の対処に30億ユーロでは不十分だとしてEUに追加の資金提供を求めている。 ダウトオールは、もしEUが難民危機に伴う痛みを本気で分かち合おうと考えているならば資金提供に関しての更なる会合を開く必要があると述べた[42]。
2016年6月23日にイギリスで行われた「イギリスの欧州連合離脱是非を問う国民投票」で僅差で「EU離脱派」が勝利した。これによりイギリスは最初のEU離脱国となった。 この国民投票は2013年の総選挙でデーヴィッド・キャメロン首相が公約に掲げていたものである。キャメロン自身はEU残留派であったが、EU離脱の唱える世論の高まりを受けて国民投票を実施した。イギリスはドイツに次ぐ第2の経済大国であり、その離脱はEUの経済力を低下させるだろう、またイギリスも経済に悪影響が出るだろうと予想された。これらは国際経済の混乱を招くとしてEU圏外の国々からも残留を求める声があり、G7伊勢志摩サミットでも議論された。
EU残留派はイギリスの繁栄はEU域内での自由な経済活動によってもたらされたものであるとEUの加盟国であるメリットを主張した。一方でEU離脱派は、多額の拠出金と移民の増加などのデメリットを主張した。両者は拮抗し、投票日まで予想がつかない状況を呈したが「残留派の勝利、現状維持」という現実的な結果が出ると各国も市場も予想していたが、結果は離脱派の勝利であった。この結果を受けてキャメロン首相は辞任を表明。同年7月13日にテリーザ・メイ内相が新首相になり「EU離脱の手続き」という「永い離婚手続き」を行うことになった。
EU加盟国の首脳はベルリンに集まり結束を確認。イギリスにリスボン条約に従い早期に「脱退の通告」をするように要求した。これは手続きにまごついていると、新たな離脱国が現れることを懸念してのことである。イギリスの離脱にEU加盟国の欧州懐疑派は勢いづいた。一方で、イギリスの構成国であるスコットランドや北アイルランドでは「残留派」が優勢であった。そのためスコットランドのニコラ・スタージョン首相はスコットランドは独立してEUに加盟することを示唆した。また北アイルランドも独立してEU加盟国の「アイルランドとの統合」を目指すことがシン・フェインから提唱された。
リスボン条約にはEU離脱についての条項はあるが具体的にどのような手続きを踏むかの詳細はない。そのためイギリスの離脱はリーディングケースとなる。
ヨーロッパの統合が進められる中で、加盟国の主権と欧州連合の権限の優劣関係や、欧州連合の制度の下で享受される恩恵が加盟国間で不平等であるといった批判や疑問を唱える論調も存在する。政治分野での統合を目的に欧州政治共同体の設置構想が掲げられ、この手前の段階として1952年には欧州防衛共同体の創設に向けた作業が進められていた。しかしフランスにおいて設置条約の批准が国民議会において諮られていたが、国民議会はこれを拒否した。
2004年10月、将来の拡大における受け入れ態勢の整備と肥大化した機構の効率化、さらには政策決定手続きの簡素化を盛り込んだ欧州憲法条約が調印されたが、同条約では「欧州連合の旗」や「欧州連合の歌」といったものを盛り込み、さながら欧州連合をひとつの国家とするような性格を持っていた。これに対して加盟国の国民からは自国が欧州連合にとって替えられるという不安から欧州憲法条約を危険視する風潮が起こり、2005年5月にフランスで、翌6月にオランダで行われた同条約の批准の是非を問う国民投票で反対票が賛成票を上回るという結果が出された。この事態にヨーロッパ統合を進めていた欧州連合の首脳は動揺し、また一部の首脳からは欧州連合のあり方について疑問や批判が出されるようになった。
2007年3月にベルリン宣言が発表され、欧州連合の統合を進めていくことが再確認された。その後、欧州憲法条約から超国家主義的な要素を排除し、欧州連合の改革を進めるための新たな基本条約の策定が合意された。「改革条約」と位置づけられたこの条約は2007年12月にリスボン条約として調印される。ところがこの条約に対しても、市民にとって機構改革の必要性がわかりにくいなどの批判が起こり、2008年6月に行われたアイルランドでの国民投票で欧州連合に批判的な政党が「わからないものには No を」と呼びかけるなどした結果、反対票が53.4%、賛成票が46.6%(投票率 53.1%)となり、ヨーロッパ統合は再び暗礁に乗り上げ、リスボン条約を推し進めてきた各国の首脳らは欧州連合に対する市民の厳しい見方の存在を改めて痛感することになった。さらにポーランドやチェコでは議会で批准が承認されたリスボン条約に大統領が署名を拒み続けるということもあった。
またイギリスは1990年代後半から2000年代にかけて、欧州連合のもとでヨーロッパ統合に前向きであったにもかかわらず、ユーロの導入に関して、1990年の欧州為替相場メカニズム参加を契機に起こったポンド危機の経験から消極的な姿勢が見られる。このイギリスの消極的な姿勢は2016年のEU離脱へ至る。くわえて、基本条約においてユーロ導入が義務付けられているスウェーデンも、1994年の欧州連合への加盟を問う国民投票で加盟賛成が53%を占めていたものの、議会がユーロ導入時期の決定について事実上の棚上げを宣言し、その後2003年のユーロ導入を問う国民投票で反対が56%を占めるという結果が出されている。
ノルウェーはEUとは距離を置いている。ノルウェーは1973年と1995年の拡大のさいにそれぞれ欧州連合(欧州諸共同体)加盟条約に調印していたが、それらの条約の批准をめぐって国民投票で是非が問われ、いずれも反対する票が上回り、実際には欧州連合(欧州諸共同体)加盟に至らなかった。また1992年6月2日、マーストリヒト条約批准にあたってデンマークでは国民投票が実施されたが、僅差で批准反対票が上回り、さらにはイギリスにおいても議会で批准が拒否される事態が起きた。さらに従来の基本条約を修正するニース条約の批准においても、基本条約を修正するさいに国民投票の実施が憲法で義務付けられているアイルランドにおいて批准が拒否された。これらについてはいずれもその後の協議で特例を設けるなどの対応がなされ、改めて批准が諮られ可決されてきた。
2015年の調査でもノルウェー有権者の約7割がEU加盟に反対している[43]。 もしEUに加盟すればEU側の主張や法(共通農業政策、共通の刑法など)に従うことが求められる。 よってノルウェーは自国の主権を最大限に行使するため、EUではなく、欧州自由貿易連合に加盟している。 EFTA加盟国の一人当たり所得はEUの約1.5倍である[43]。
2015年、もはやアイスランドは欧州連合に加盟する意志がないことを欧州委員会とEU大統領に通告した[44]。自国通貨アイスランド・クローナを有するアイスランドは、2008年のデフォルト以来、通貨暴落の恩恵を受けて輸出増で景気が順調に回復した。2007年には1ドル60アイスランド・クローナだったが、債務不履行の後に1ドル125アイスランド・クローナまで暴落。この通貨安はアイスランドの輸出産業、例えば観光業に追い風を与え、2011年度には56万人の観光客を呼び込み、国家全体として輸出主導の景気回復によって3%を越える経済成長を記録した[45]。2012年には失業率を4.5%にまで改善させた。この数字はEUの平均失業率よりもはるかに低い[46]。
スイスは1992年にEU加盟のための申請を行ったが、その後EEAに加盟するかどうかの国民投票においてスイス国民がEEA非加盟を選択した[47]。それ以降EU加盟のための交渉は停止していた。 その後スイス国民党が中心となって動き、スイス下院でEU加盟申請を取り下げる決定を下した。そして2016年6月にスイス上院が1992年の加盟申請を無効化する決定をしたことにより、スイスはEUへの加盟を公式に辞退した[47]。
欧州地域の安定及び協調路線を図る取り組みが評価され、2012年度のノーベル平和賞を受賞。
第二次世界大戦以降EEC、EC、EUが欧州の平和を維持してきたとする考えがあるが、東西冷戦時代は実際には東西両陣営に配置されていた核戦力による核の抑止力が武力衝突を防いできた。1948年にベルリン封鎖、1953年に東ベルリン暴動、1956年にハンガリー動乱が起こった時、EECはまだ存在していなかった。1968年にプラハの春が起こった時、ECは存在していたものの、共通農業政策しか確立していなかった[48]。
バスク紛争(1959-2011年)、北アイルランド問題(1968-1998年)、トルコによるキプロス侵攻(1974年)、どれもEEC、EC、EUは行動を起こさなかった[49]。
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