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「エスパニア」と「エスパーニャ」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「エスパニア (曖昧さ回避)」、「エスパーニャ (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
(国旗) | (国章) |
公用語 | スペイン語[1] | ||||||||||||||||||||||||||||||
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首都 | マドリード | ||||||||||||||||||||||||||||||
最大の都市 | マドリード | ||||||||||||||||||||||||||||||
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通貨 | ユーロ (€) (EUR) [5][6] | ||||||||||||||||||||||||||||||
時間帯 | UTC +1(DST:+2)[7] | ||||||||||||||||||||||||||||||
ISO 3166-1 | ES / ESP | ||||||||||||||||||||||||||||||
ccTLD | .es | ||||||||||||||||||||||||||||||
国際電話番号 | 34 |
スペイン王国(スペインおうこく、スペイン語: Reino de España)、通称スペインは、南ヨーロッパのイベリア半島に位置し、同半島の大部分を占める立憲君主制国家。西にポルトガル、南にイギリス領ジブラルタル、北東にフランス、アンドラと国境を接し、飛地のセウタ、メリリャではモロッコと陸上国境を接する。本土以外に、西地中海のバレアレス諸島や、大西洋のカナリア諸島、北アフリカのセウタとメリリャ、アルボラン海のアルボラン島を領有している。首都はマドリード。
スペイン1978年憲法では正式国名は定められておらず、スペイン語で、España([esˈpaɲa] ( 音声ファイル)、エスパーニャ)、Reino de España(レイノ・デ・エスパーニャ) 、Estado español(エスタード・エスパニョール)の3つが用いられている[1][2]。
日本語の表記はそれぞれ、スペイン、スペイン王国、スペイン国。これは英語表記の「Spain」に基づく。漢字による表記は西班牙で、西と略す。ただし、江戸時代以前の日本においては、よりスペイン語の発音に近い「イスパニア」という呼称が用いられていた。語源は古代ローマ人のイベリア半島の呼び名「ヒスパニア」である。 英語表記で国民はSpaniard、形容詞はSpanish。 「España(エスパーニャ)」とは、フェニキア語で「ハイラックスの島」を意味する「i-shaphanim」に由来とされ、フェニキア人が同地に生息していたノウサギをそれと誤認したことから生まれたとされる。その後古代ギリシア語で「Ἱσπανια(Hispania)」、古ラテン語で「Hispānia」、俗ラテン語で「Spania」、アングロ=ノルマン語で「Espayne」と変化していった。
「エスパーニャ」という名称は、長らく同地を指す俗称だった。1492年の王国統合以降でも国王はあくまで連合王国(「カトリック(またはスペイン)君主制国(モナルキア)」と称されることが多かった)の共通君主に過ぎず、宮廷や議会・政府は各構成国毎に置かれている諸侯連合だった。1624年宰相オリバーレスは国王に「スペイン国王」となるよう提案したが実現しなかった。1707年発布の新組織王令により複合王政は廃止され、単一の中央集権国となった。しかしこの時もスペインは国号とはならず、1808年ナポレオン・ボナパルトの兄ホセの即位時に正式にスペイン国王が誕生した(スペイン国旗が登場したのは1785年)。
1978年憲法で、それまで明記されていた国号が定められなかったのは、君主制は維持するものの、その位置付けは象徴的な存在に変わり、国を動かすのは国民によって選ばれた議会が中心になることを明確化するために採られた措置であった。
なお、スペイン外務省は1984年に、「スペイン王国」と「スペイン」を国際条約においては同等と見なすとの法令を出した。現在は国際条約や国際組織の文書、国内の公式文書や外交文書において前者が公式国名として使用される事が多い[3]。
アタプエルカ遺跡の考古学的研究から120万年前にはイベリア半島に人類が居住していたことが分かっている[4]。3万5000年前にはクロマニョン人がピレネー山脈を越えて半島へ進出し始めている。有史以前の最もよく知られた遺物が北部カンタブリア州のアルタミラ洞窟壁画で、これは紀元前1万5000年の物である。
鉄器時代の半島には北東部から南西部の地中海側にイベリア人が、北部から北西部の大西洋側にはケルト人が住んでいた。半島の内部では2つの民族が交わりケルティベリア文化が生まれている。またピレネー山脈西部にはバスク人がいた。アンダルシア地方には幾つものその他の民族が居住している。南部の現在のカディス近くにはストラボンの『地理誌(英語版)』に記述されるタルテッソス王国(紀元前1100年頃)が存在していたとされる。
紀元前500年から紀元前300年頃にフェニキア人とギリシャ人が地中海沿岸部に植民都市を築いた。ポエニ戦争の過程でカルタゴが一時的に地中海沿岸部の大半を支配したものの、彼らは戦争に敗れ、ローマ人の支配に代わった[5]。
紀元前202年、第二次ポエニ戦争の和平でローマは沿岸部のカルタゴ植民都市を占領し、その後、支配を半島のほぼ全域へと広げ属州ヒスパニアとし、法と言語とローマ街道によって結びつけ、その支配はその後500年以上続くことになる[6]。原住民のケルト人やイベリア人はローマ化されてゆき、部族長たちはローマの貴族階級に加わった[5]。ヒスパニア州はローマの穀倉地帯となり、港からは金、毛織物、オリーブオイルそしてワインが輸出された。キリスト教は1世紀に伝えられ、2世紀には都市部に普及した[5]。現在のスペインの言語、宗教、法原則のほとんどはこの時期が原型となっている[6]。
ローマの支配は409年にゲルマン系のスエビ族、ヴァンダル族、アラン族が、それに続いて西ゴート族が侵入して終わりを告げた。410年頃、スエビ族はガリシアと北部ルシタニア(現ポルトガル)の地にスエビ王国(ガリシア王国)を建て、その同盟者のヴァンダル族もガリシアからその南方のドウロ川にかけて王国を建てている。415年頃、西ゴート族が南ガリアに西ゴート王国を建国し、418年頃に最終的にヒスパニア全域を支配した。
552年には東ローマ帝国がジブラルタル海峡の制海権を求めて南部に飛び地のスパニア(英語版)を確保し、ローマ帝国再建の手がかりにしようとした。西ゴート王国治下の589年にトレド教会会議が開催され、国王レカレド1世がそれまで西ゴート族の主流宗旨だったアリウス派からカトリック教会に改宗し、以後イベリア半島のキリスト教の主流はカトリックとなった。
711年に北アフリカからターリク・イブン=ズィヤード率いるイスラーム勢力のウマイヤ朝が侵入し、西ゴート王国はグアダレーテの戦い(英語版)で敗れて718年に滅亡した。この征服の結果イベリア半島の大部分がイスラーム治下に置かれ、イスラームに征服された半島はアラビア語でアル・アンダルスと呼ばれようになった。他方、キリスト教勢力はイベリア半島北部の一部(現在のアストゥリアス州、カンタブリア州、ナバーラ州そして 北部アラゴン州)に逃れてアストゥリアス王国を築いた[5]。
イスラームの支配下ではキリスト教徒とユダヤ教徒は啓典の民として信仰を続けることが許されたが、ズィンミー(庇護民)として一定の制限を受けた[7]。 シリアのダマスカスにその中心があったウマイヤ朝はアッバース革命により750年に滅ぼされたが、アッバース朝の捕縛を逃れたウマイヤ朝の王族アブド・アッラフマーン1世はアンダルスに辿り着き、756年に後ウマイヤ朝を建国した。後ウマイヤ朝のカリフが住まう首都コルドバは当時西ヨーロッパ最大の都市であり、最も豊かかつ文化的に洗練されていた。後ウマイヤ朝下では地中海貿易と文化交流が盛んに行われ、ムスリムは中東や北アフリカから先進知識を輸入している。更に、新たな農業技術や農産物の導入により、農業生産が著しく拡大した。後ウマイヤ朝の下で、既にキリスト教化していた住民のイスラームへの改宗が進んだ。785年コルドバにメスキータが、889年グラナダにアルハンブラ宮殿が建設された。
10世紀頃のアンダルスではムデハル(スペイン語版)(イベリア半島出身のムスリム)が住民の大半を占めていたと考えられている[8][9]。イベリア半島のイスラーム社会自体が緊張に取り巻かれており、度々北アフリカのベルベル人が侵入してアラブ人と戦い、多くのムーア人がグアダルキビール川周辺を中心に沿岸部のバレンシア州、山岳地域のグラナダに居住するようになっている[9]。イスラーム世界は銀飢饉に苛まれており、元朝が銀を還流させるまで危機がつづいた。
11世紀に入ると1031年に後ウマイヤ朝は滅亡し、イスラームの領域は互いに対立するタイファ諸王国に分裂した。イスラーム勢力の分裂をきっかけに、それまで小規模だったナバラ王国やカスティーリャ王国、アラゴン王国などのキリスト教諸国が大きく領域を広げた[9]。キリスト教勢力の伸張に対し、北アフリカから侵入したムラービト朝とムワッヒド朝が統一を取り戻し、北部へ侵攻したもののキリスト教諸国の勢力拡大を食い止めることはできなかった[5]。
722年西ゴート王国のペラーヨはコバドンガの戦いに勝利しアストゥリアス王国を建国した。これがスペイン・キリスト教諸国の拡大、すなわちレコンキスタ(再征服運動:Reconquista)の嚆矢であるとされている。数百年にわたるイスラームの支配時期に重なってレコンキスタは進行したが、10世紀のイスラム銀飢饉までは膠着状態にあった。イスラーム勢力はピレネー山脈を越えて北方へ進軍を続けたが、トゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国に敗れた。その後、イスラーム勢力はより安全なピレネー山脈南方へ後退し、エブロ川とドウロ川を境界とする。739年にはイスラーム勢力はガリシアから追われた。778年、ロンスヴォーの戦いがおこった。フランク軍はピレネー山脈南方にキリスト教伯領(スペイン辺境領)を設置し、後にこれらは王国へ成長した。これらの領域はバスク地方、アラゴンそしてカタルーニャを含んでいる[5]。844年、ノルマン人がリスボンとカディスを侵犯した。912年から1002年まで、スペイン・キリスト教諸国と後ウマイヤ朝カリフが不断の抗争に明け暮れた。955年アブド・アッラフマーン3世がレオン王国と講和した。961年レオン王国からカスティーリャ王国が事実上独立した。このカスティーリャが以降のレコンキスタを主導することになる。
1031年に後ウマイヤ朝が滅亡しタイファ諸王国に分裂した。ここでキリスト教諸王国は勢力を南下させた。1085年にトレドを奪取し、その後、キリスト教諸国の勢力は半島の北半分に及ぶようになった。12世紀にイスラーム勢力は一旦は再興したが、それを第3回十字軍が牽制した。この大遠征は東西教会の分裂を促したが、東ローマ帝国はイスラーム世界の全盛期から奴隷出身の宦官に政治を左右されがちであった。1212年ナバス・デ・トロサの戦いでキリスト教連合軍がムワッヒド朝のムハンマド・ナースィルに大勝すると、イスラーム勢力の南部主要部がキリスト教勢力の手に落ちることになった。1236年にコルドバが、1248年にセビリアが陥落し、ナスル朝グラナダ王国がカスティーリャ王国の朝貢国として残るのみとなった[10]。
13世紀と14世紀に北アフリカからマリーン朝が侵攻したが、イスラームの支配を再建することはできなかった。13世紀にはアラゴン王国の勢力は地中海を越えてシチリアに及んでいた[11]。13世紀、ムーア人王国を除き南スペイン全体はカスティーリャ王国の手におちた[12]。軍団と貴族に恩賞としてラティフンディオが与えられた[12]。この頃にヨーロッパ最初期の大学であるバレンシア大学(1212年/1263年)とサラマンカ大学(1218年/1254年)が創立されている。
1325年、アラゴン王国はジェノヴァ共和国からサルデーニャを奪った。
1348年から1349年の黒死病大流行によってスペインは荒廃した[13]。とくにアラゴンのバルセロナが直撃を受けた[14]。カタルーニャでは人口の三割が失われた[14]。1346年に造幣されたフローリン金貨は対外債務の増大により海外へ流出し、これを防ぐために悪鋳されていった[14]。クロアット貨は品位が維持され、投機の対象となり、保有する者は退蔵しがちであった[14]。にわかにフランス貨幣が流入し、日常の交換手段として用いられた[14]。王室財政が王領地の減少と莫大な債務にあえぐ一方で、バルセロナ財政も公債発行に追い込まれた[14]。自転車操業の末、1380年代に公債が軒並み償却できなくなった[14]。バルセロナの個人銀行は、公債を引受けていたところをはじめとして連鎖的に倒産した[14]。バルセロナ市当局は1401年に財政を管理下において欧州初の公営銀行を設立した[14]。バルセロナ他多数の地域とは対照的に、アラゴンのバレンシア王国だけは農産物と羊毛の輸出力を強みとして急速に人口を回復していた[15]。1412年カスティーリャにトラスタマラ朝が成立した[16]。アラゴンはカスティーリャ内政に干渉したが、しかし逆効果であった。カスティーリャとジェノヴァ共和国の同盟関係は強化される一方であった[16]。1430年、カスティーリャのフアン2世と休戦条約をむすび、アラゴン勢力はカスティーリャ内政から締め出された[16]。1453年、カタルーニャ総督にガルセラン・ダ・レケセンス(Galceran de Requesens y Santa Coloma)が任命された[15]。彼は商人や手工業者を主体とするブスカ市政を実現した[15]。ブスカは7年にわたり市政を掌握し、保護主義政策を打ち出した[15]。すると輸入業者や地代生活者からなるビガの反発がおこった[15]。ビガはブスカだけでなく王権にも挑戦した[15]。1462年からジローナを起点として、カタルーニャでは内戦がつづいた[15]。ここへ1466年ごろからフランス軍が侵攻しカタルーニャ総督を任命したので、アラゴンはイングランド王国やブルゴーニュ公国と同盟した[15]。1468年、バルセロナの公営銀行が事実上の破綻をむかえた[14]。
1388年、カスティーリャは遠征してきたジョン・オブ・ゴーントの講和に応じた(バイヨンヌ条約)。ドーヴァー海峡は開放された。
1420-30年代のカスティーリャでは、ガリシア地方の下級貴族が市民・下級聖職者・農民を結集して王権への直属を求め、有力貴族による特権侵害および土地簒奪に対抗した(Irmandade Fusquenlla, 第一次イルマンディーニョス反乱)[17]。前節で言及したようにアラゴンとの抗争も並行した。さらに1442年から1444年、ビスカヤ地方のドゥランゴでフランシスコ会士アロンソ・デ・メリャ(Alonso de Mella)が聖書の自由な解釈と財産の共有などを主張し、中世スペイン最大の異端運動に発展させた[17]。そこで1445年、カスティーリャはオルメードの戦いでアラゴン派貴族を破り閉塞状況を打破した(Batalla de Olmedo)[17]。以後トレドでコンベルソを弾圧しながら王権を強化していった[18]。1468年、トロス・デ・ギサント協定により第二次イルマンディーニョス反乱を和解させた[17]。
1469年、イサベル女王とフェルナンド国王の結婚により、カスティーリャ王国とアラゴン王国が統合された[17][15]。それまでカスティーリャは地中海に疎かったが、統合により貿易へ参入した[17]。50年前からの混乱はカスティーリャの経済構造を再編させた[19]。メスタが振興され、メディナ・デル・カンポの大市では大規模な羊毛取引と国際的な為替取引が行われた[19]。ビスカヤ産の鉄製品も輸出された[19]。そしてアンダルシアのワインやオリーブ油もセビリアからジェノヴァ商人の手を経て輸出された[19]。ア・コルーニャは漁港として繁栄した[19]。スペインは現在も欧州最大の漁業国であり、ビーゴ港を主力としている。
再征服は最終段階となった。セビリアでは戦利品としての黒人奴隷が増えていた。1475年に王国は「セビリアの黒人王」を任命し、下級裁判権を与え奴隷間の紛争解決にあたらせた[20]。1478年にカナリア諸島を、そして1492年にグラナダを陥落した。これによって、781年に亘ったイスラーム支配が終了した。グラナダ条約(英語版)ではムスリムの信仰が保障されている[21]。この年、イサベル女王が資金を出したクリストファー・コロンブスがアメリカ大陸に到達している。またこの年にスペイン異端審問が始まり、ユダヤ人に対してキリスト教に改宗せねば追放することが命ぜられた[22]。その後同じ条件でムスリムも追放された[5]。彼らはジブラルタル海峡を渡りフェズ王国へ逃れたが、同国はサアド朝に交代する。
イサベル女王とフェルナンド国王は貴族層の権力を抑制して中央集権化を進め、またローマ時代のヒスパニア (Hispania) を語源とするエスパーニャ (España) が王国の総称として用いられるようになった[5]。
1489年、メジナデルカンポ条約。1494年トルデシリャス条約。1503年セビリアに通商院が設置された。1504年の勅令で、鉱山を発見した国民が五分の一税を納めることで採掘を認められた[23]。ただし別の勅令で富鉱(minass ricas)は王室が独占するところとなった。 アントウェルペンが帝国郵便を介してスペインと結ばれたころであった。1516年、ハプスブルク家のカール大公がスペイン王カルロス1世として即位し、スペイン・ハプスブルク朝が始まる。カルロス1世は1519年に神聖ローマ皇帝カール5世としても即位し、反宗教改革の擁護者となった。するとコムニダーデスの反乱(1520年 - 1521年)がおこった。1538年プレヴェザの海戦でシナン・レイースがオスマン帝国の勝利に貢献した。
16世紀前半にエルナン・コルテス、ペドロ・デ・アルバラード、フランシスコ・ピサロをはじめとするコンキスタドーレスがアステカ文明、マヤ文明、インカ文明などアメリカ大陸の文明を滅ぼす。アメリカ大陸の住民はインディオと呼ばれ、奴隷労働によって金や銀を採掘させられた。洋銀がポトシやグアナフアトの銀山で鋳造された。金銀は1552年からスペイン帝国の外へ流出した[24]。オスマン帝国やイギリスとの戦争によって流出は加速した。それをイギリスやオランダが蓄積した(資本の本源的蓄積)。ここで洋銀が金銀比価に影響を与えはじめた。
スペイン帝国はラテンアメリカの従属と低開発を規定した(アシエンダ制)[25]。最盛期のスペイン帝国は南アメリカ、中央アメリカの大半、メキシコ、北アメリカの南部と西部、フィリピン、グアム、マリアナ諸島、北イタリアの一部、南イタリア、シチリア島、北アフリカのいくつかの都市、現代のフランスとドイツの一部、ベルギー、ルクセンブルク、オランダを領有した[26]。また、1580年にポルトガル王国のエンリケ1世が死去しアヴィシュ王朝が断絶すると、以後スペイン王がポルトガル王を兼ねた。
カルロス1世(1516年 - 1556年)とフェリペ2世(1556年 - 1598年)の治世に、スペインは世界で初めて「太陽の没することなき帝国」となった。海上と陸上の探検が行われた大航海時代であり、大洋を越える新たな貿易路が開かれ、ヨーロッパの植民地主義が始まった。探検者たちは貴金属、香料、嗜好品、新たな農作物とともに新世界に関する新たな知識をもたらした。この時期はスペイン黄金世紀と呼ばれる。十分の一税の徴収記録によれば、16世紀を通じて本土の人口と農業生産量が増加した[27]。その一方で新世界の開拓者は耕作しなかった[24]。スペインは食料生産が追いつかず、輸入元へ支払った貨幣を国内で費消するよう規制していた[24]。しかし破綻して、1552年カスティーリャ王国がついに貴金属の輸出を許した[24]。1559年カトー・カンブレジ条約。1561年、フェリペ2世は宮廷をマドリードに移した。以後マドリードは現在までスペインの首都である。
16世紀後半からは戦乱の連続であった。ネーデルラントの反乱(八十年戦争)(1568年 - 1648年)、モリスコの反乱(英語版)(1568年)、オスマン帝国との衝突(英語版)(レパントの海戦, 1571年)、英西戦争(1585年 - 1604年)、モリスコ追放(1609年)、そしてフランス・スペイン戦争(1635年 - 1659年)が起こっている。戦費は成金を貴族化させることで調達したので、1591年カスティーリャ王国の貴族は60万人(総人口の10%)に達したが、17世紀スペイン全人口においても一割程度を占めた[28]。
16世紀末から小氷期の17世紀にかけて、スペインはあらゆる方面からの攻撃を受けた。急速に勃興したオスマン帝国と海上で戦い、イタリアやその他の地域でフランスと戦火を交えた。さらに、プロテスタントの宗教改革運動との宗教戦争の泥沼にはまり込む。その結果、スペインはヨーロッパと地中海全域に広がる戦場で戦うことになった[29]。 1588年ガレオン船で編成された無敵艦隊が英国に敗れた(アルマダの海戦)。三十年戦争(1618年 - 1648年)にも部隊を派遣。白山の戦いの勝利に貢献し、ネルトリンゲンの戦いでは戦勝の立役者となった。莫大な財政援助も行い、スペインは神聖ローマ皇帝軍をよく支えた。スペインは皇帝軍の支援を期待していたが、しかし八十年戦争やマントヴァ公国継承戦争で皇帝軍はスペインへ友軍を派遣しなかった。戦争の終盤にはサヴォワでフランスに敗北し手痛い打撃を受けている。これらの戦争はスペインの国力を消耗させ、衰退を加速させた。
1640年にはポルトガル王政復古戦争によりブラガンサ朝ポルトガルが独立し、1648年にはオランダ共和国独立を承認、1659年にはフランス・スペイン戦争を終結させるピレネー条約を不利な条件で締結した。1680年のインディアス法令集成からは、王室が富鉱を独占する規定がなくなり、五分の一税を払うだけで採掘が許された[23]。スペインの黄金時代は終わりを告げた。
スペイン継承戦争(1701年 - 1713年)は広範囲の国際紛争かつ内戦でもあり、欧州でスペイン帝国の版図を縮小した[5]。そこで新たにブルボン家が王位に就き、フェリペ5世が連合王国の王位を統合した[5]。ユトレヒト条約とラシュタット条約によりスペイン・ブルボン朝が成立した。1717年、通商院をカディスへ移転した。1735年、両シチリア王国を領土に加えた。
1759年啓蒙専制君主カルロス3世が即位した。25年もナポリ王であった彼は、財務大臣にレオポルド・デ・グレゴリオ(エスキラーチェ侯爵)を起用した[30]。1765年7月、侯爵は穀物の最高取引価格設定を廃して流通を自由化した[30]。するとマドリードのパン価格は1761年と比べておよそ二倍となった[30]。そして1766年エスキラーチェ暴動がおきた(Motín de Esquilache)[30]。民衆は侯爵の罷免と食糧価格の引き下げにとどまらず、マドリード警備兵と服装取締令の廃止を要求した[30]。王は自ら宮廷のバルコニーに立って群衆の要求を呑んだ[30]。暴動は勢いづいて全国へ伝播していった[30]。1767年2月の勅令が、暴動の首謀者として全土からイエズス会が財産没収のうえ追放された[30]。なお、英仏の啓蒙思想はホベジャーノス(スペイン語版、英語版)や[30]、フェイホー(スペイン語版、英語版)によって輸入され、一部の貴族や王家の中で地歩を築いた。18世紀後半、貴族と教会が農法の啓蒙活動を展開した(Sociedades económicas de amigos del país)[31]。貿易も急速に成長し、アメリカ独立戦争ではアメリカ独立派に軍事援助を行った[32]。
18世紀スペインの人口増加率は地域格差を示した。すなわち農村部が栄えた[33]。バレンシアは1718年から1794年の間に、その人口が25万強から93万強となった[33]。住民数が十万を超えた都市はマドリードとバルセロナだけであった[33]。バリャドリッドやブルゴスも衰退した[33]。しかしラティフンディオは、そこをメリノ種の大群が往来し、小麦とオリーブ栽培は結果として粗放となって収量が極度に低いものとなった。世紀末に近づくにつれて飢饉が長期化した。1756年から1773年で小麦輸入量は1730万ブッシェルにのぼった[34]。
セビリア荘園コルティーホ(Cortijo)の労働力は全裸同然の日雇いブラセロス(Braceros)が主力であった[35]。
1783年の鉱業条例で、富鉱がスペイン植民地全体で解放されることが定められた[23]。1789年フランス革命。1793年スペインがフランス第一共和政と争った(フランス革命戦争)。1796年スペインはサン・イルデフォンソ条約を結んだ。共和政に破れたスペインは属国としてイギリス・ポルトガルに宣戦布告した。ナポレオン率いるフランス第一帝政とも関係を維持した。1805年スペイン海軍・フランス海軍はイギリス海軍に破れた(トラファルガーの海戦)。ナポレオン戦争はスペイン領フロリダをふくむアメリカ植民地との貿易を遮断した[36]。主戦場の一つとなったカタロニアで綿工業がほぼ壊滅した[36]。
1808年3月ブルボン朝のフェルナンド7世が退位させられ、ナポレオンの兄のジョゼフがホセ1世としてスペイン国王に即位した。この傀儡国王は国辱とみなされ、即座にマドリードで反乱が発生、全土へ拡大した(スペイン独立戦争)[37]。同年5月3日の虐殺は有名な絵画となっている(フランシスコ・デ・ゴヤ画「マドリード、1808年5月3日」)。ナポレオンは自ら兵を率いて介入したが、スペイン軍のゲリラ戦術とウェリントン公爵率いる英葡軍に苦戦した。公爵にはネイサン・メイアー・ロスチャイルドが戦費を配達した。ホセ1世は1808年12月に封建制を廃止する政令を出していた[38]。1811年8月の政令で貴族の特権的領分は各自治体のものとなった[38]。ガリシアやバレンシアで農民が補償を求めて政令を解釈しようと、社会的緊張や暴動を引き起こした[38]。カディスでスペイン1812年憲法が制定された。1813年に、政令の解釈を調停する委員会が設置された[38]。1814年5月の政令で3年前の政令が撤回された[38]。フランス勢力はスペインから駆逐され、ブルボン家のフェルナンド7世が復位した[39]。そして絶対主義への反動政策を採った。
1820年ラファエル・デル・リエゴ将軍がスペイン立憲革命を達成した。このとき1812年憲法が復活した。貴族と教会がなお議会に干渉し革命同年の法律を制定した[40]。十分の一税が廃され、しかし各種公課は金納となった[40]。メスタが不当な利益を得て、零細農民が土地を追われた[40]。一連の法律は1923年まで有効に運用された[40]。1823年にリエゴ将軍は処刑された。ウィーン体制の崩壊を恐れて神聖同盟がスペインに干渉したのであった。1825年リベルタドーレスが南米最後の植民地ボリビアを独立させた。アメリカ大陸でスペインはキューバとプエルトリコ以外の植民地を失った。1825年スペイン鉱業法は1783年の鉱業条例に影響された[23]。
1833年、第一次カルリスタ戦争[40]。自由主義勢力がマリア・クリスティーナに味方した[40]。マリアの故郷両シチリア王国はカール・マイアー・フォン・ロートシルトが財政を支えていた。絶対主義者たちカルリスタは貴族と教会であった。1835年6月に修道院は原則として国有化された[41]。それは外債を償却するため競売にかけられ、貴族のものとなった[41]。1845年までに教会財産の約3/4が処分された[41]。バレアレス諸島の場合99%が人手に渡った[41]。事実上のラティフンディオは財政に寄与した[40]。個人としての貴族と、カスティーリャ運河会社(Canal de Castilla)がその経営者であった[40]。1848年革命がウィーン体制を混乱させた。1851年3月、バチカンの教皇庁と協定した[41]。教皇は過去における財産没収の合法性を認めた[41]。スペインは教会が合法的手段で財産を回復する権利を認め、未だ払い下げていない資産を返還、さらに教区の司祭に対して年俸を支給することに同意した[41]。
1855年5月の法律がわずかな例外を除いて市町村の共有地をふくむ全ての永代所有地について売却を制度化した[42]。競売の初年度に売却益の一定額が不時の財政赤字に備え積み立てられることになった[42]。それ以降について、売却益の半分が公債の償還に充てられ、残り半分が公共事業へ支出されることとなった[42]。1855年から1868年の間に処分された土地は、競売価格で割合を掲げると、共有地50%、教会財産30%、国家または修道会の慈善事業に属する土地ないしドン・カルロスといった個人からの没収地が20%であった[42]。1856年の銀行諸法が複数発券銀行制を採用し、やがては都市ごとに発券行がおかれた[43]。そして1856年の信用会社法はクレディ・モビリエの定款をモデルとして、マーチャント・バンク(merchant bank)の広範囲な業務活動を可能にした(公債引受・租税徴収・産業助成・商業銀行)[43]。これに沿ってクレディト・モビリアリオ(Sociedad General de Crédito Mobiliario Español)が設立された[43]。大勢のスペイン貴族とペレール兄弟と200家族が重役となった[43]。スペインに鉄道熱がおこり、このときロスチャイルド家のサラゴサ・アリカンテ鉄道が誕生した[44]。1866年バルセロナ証券取引所の鉄道株が暴落した[45]。そしてにわかに土地競売が勢いを増した。1868年、飢饉とともに第三次カルリスタ戦争がおこった。この市民革命で成立した臨時政府が、最大の水銀鉱山アルマデンを担保にロスチャイルド家から借款を得た[23]。1869年の鉱業法がスペインの鉱産資源を散逸させた[23]。鉄鉱石がイギリスとベルギーのものとなった。鉛は英仏の銃弾となった。亜鉛はコッカリルなどベルギー資本が独占するところとなった[23]。銅と黄鉄鉱は英国資本が手中におさめた[23]。フランスが採掘するアストゥリアス州の石炭は需要の不足に苛まれた[23][46]。1870年サヴォイア家のアマデオ1世が即位した。1873年スペイン史上初の共和制移行がみられた(スペイン第一共和政)。そしてロスチャイルドがリオ・ティントを買収した。翌1874年スペインは経済界に歓迎されて王政復古、スペイン銀行に紙幣発行の独占権を与えた。1876年、新憲法発布の年に、カルリスタがネルビオン川の左岸を放棄した[47]。するとビルバオ港からの鉄鉱石輸出量が大幅に増えた[47]。2年後、第一次キューバ独立戦争が終結した。1880年キューバに対する奴隷漸廃法が成立した。翌年に保守党のカノバス・デル・カスティーリョが失脚した。1883年バクーニン派が弾圧された。1884年スペイン領サハラを獲得した。1880年代カタロニアはネアブラムシのはびこるフランスへ存分にブドウ酒を輸出したが、1898-9年カタロニアもやられて作付面積を38.5万haから4.1万に減らした[48]。1890年ジーメンス・ウント・ハルスケのカタロニア支店が設置された[49]。1893年モロッコへ出兵した。1894年AEGがバルセロナの電力会社(Sociedad Española de Electricidad)を買収した[49]。1898年ハバナでアメリカ海軍のメイン号が爆沈した。そこで米西戦争が勃発した。ニューヨーク生命とエクイタブル生命のスペイン内投資が、スペインの世論に攻撃され、損害を受けた[50]。敗北したスペインはキューバとフィリピンの独立を許した。キューバから移民とその貯蓄が戻ってきてバスクの工業を強化した[51]。カタロニアの通商は麻痺した[51]。米西戦争は「大惨事("El Desastre")」として語り継がれた。敗戦の衝撃から「98年の世代(英語版)」と呼ばれる知識人の一群が生まれた。その一人ホアキン・コスタ(Joaquín Costa)は水力政策を国家資本で主導しようと画策したが、売国的な財政政策に阻まれ挫折してしまった[52]。鉱石輸出のピークたる1899年には、541万トンの鉱物がビルバオ港から積み出されたが、全国の産出量は861万トンにすぎなかった[47]。1900年ごろ、スペイン領ギニア(英語版)(赤道ギニア)を獲得した。
1904年アンダルシアでゼネストの嵐が吹き荒れた[53]。1906年スペインは超保護関税を採用した[54]。これはビスカヤ高炉社長のパブロ・デ・アルソラ(Pablo de Alzola)が精力的に働きかけた結果であり、それまで政府は近代化政策をことごとく頓挫させていた[54]。1907年恐慌がスペインを刺激した。1908年11月ヴィッカースとコミーリャス侯爵(Claudio López Bru)の率いる軍需産業に対して、アントニオ・マウラ(Antonio Maura)のスペイン政府は2億ペセタの契約を与えた[54]。ヴィッカースには死の商人バジル・ザハロフが出入りした。彼はスペイン皇女と結婚する男であった。1910年からストライキの件数が倍増していったが、スペイン労働者の大多数は労組に加入していなかった[55]。1912年スペイン領モロッコ(英語版)を獲得した。スペインは第一次世界大戦を中立で乗り切ったが、スペインの軍需品輸出は「スペインかぜ」の流行に一役買い、スペイン経済は従って戦後不況を免れなかった。農業は作物輸出と肥料輸入の両方が無制限潜水艦作戦で行えなかった[56]。1919年5月、超反動政治家のシエルバ(Juan de la Cierva y Peñafiel)は軍をコルドバに派遣して南部のストライキを弾圧した[57]。1921年、第3次リーフ戦争でスペインは軍事的大損害を出した。1922年マウラ政府が退陣した[58]。1923年から1930年まで、ミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍の愛国同盟(英語版)が軍事独裁政権を樹立した[59]。将軍はカタロニアの自治を廃した一方で、ラティフンディオの所有者とは協調した[59]。1926年フランス軍の援軍を得てリーフ戦争を鎮圧した。この同年から水利技師ロレンソ・パルド(Manuel Lorenzo Pardo)が天才的采配をふるい、7万2000ヘクタールの灌漑農地を新たに開拓し、また水力発電量の倍化に貢献した[59]。1927年にプリモ将軍は石油専売会社を創設した(CAMPSA)[59]。1930年秋にアンダルシアが異常旱魃にみまわれ[60]、軍事政権に対する国民の不満が噴出した。翌1931年アルフォンソ13世が亡命して君主制が崩壊した[61]。スペイン1931年憲法(英語版)が制定され、スペイン第二共和政が成立した。第二共和政はバスク、カタルーニャそしてガリシアに自治権を与えた[62]。共和政下では女性参政権も認められた。スペイン銀行が当時の恐慌を世界恐慌と切り離して論じた[63]。しかしアンダルシア低地には1930年と1931年の数ヶ月で20万人の失業者がいた[63]。1931年に失業保険国民金庫(Caja Nacional contra el Paro Forzoso)が設立された[64]。1933年までに同金庫に割り当てられた予算額は、年間100万ペセタを超えず、国家予算の5厘に満たなかった[64]。失業保険国民金庫は、失業保険を実施している労働者団体に貸し付けることしかできなかった[64]。農地改革にはやる気が全く見えなかった[65]。
共和政の左派と右派が農地をめぐり激しく対立した。1936年2月の選挙で左翼共和党(英語版) (IR)、社会労働党 (PSOE)、共産党 (PCE) ら左派連合のマヌエル・アサーニャスペイン人民戦線政府が成立した。これに対抗したフランシスコ・フランコ将軍の軍部反乱が、人口を等分するスペイン内戦に発展し国民経済を分断した[66]。
8月初め共和政はカタロニア、バスク、アストゥリアスといった主要工業地帯のすべてを手中におさめていた[66]。農業地帯では新カスティーリャ、レバンテ、アンダルシア東部、アラゴンおよびエストレマドゥーラの一部がその勢力下にあった[66]。共和政は、軽工業と重工業をほぼ独占していたが、食料は園芸作物・オリーブ・かんきつ類の生産に特化している地域へ依存した[66]。ブルゴスを拠点とする反乱軍は、勢力圏内で全国小麦生産の2/3と、じゃがいも・野菜の半分以上と、砂糖の九割を生産した[66]。反乱軍は工業生産の不足を解消するため、8月ビスカヤに猛攻を仕掛け12月に制圧した[66]。ビスカヤはスペイン国民総生産36%の源泉であった[66]。金融制度も分断された。共和政はスペイン銀行の準備金46.7億ペセタを9月にモスクワへ送った[66]。反乱軍はスペイン銀行から90億ペセタを超える貸付をうけた[66]。偏った二つの経済圏は外国の支援も需要した。共和政はソビエト連邦と国際旅団の支援を受けた[67][68]。反乱軍はナチス・ドイツとイタリア王国とクラインワート(現ソジェン)の支援を受けた[69][70]。スペインは甚大な物的人的損害を被った。50万人が死亡[71]、50万人が国を捨てて亡命した[72]。スペインは社会基盤も破壊され国力を喪失した。このようにして反乱軍は勝利した。
フランコ体制下のスペインは一応ファランヘ党の一党制であったが、フランコにさからう党員は投獄された[66]。プリモ将軍の愛国同盟を吸収したファランヘ党は、反共主義・カトリック主義・ナショナリズムを掲げた。1938年の労働憲章はイタリアのそれを土台としていた[66]。第二次世界大戦下のスペインは枢軸国寄りであり(フランキスモ)、ソ連と戦うための義勇兵としてナチス・ドイツに青師団を派遣したが、正式な参戦はせずに中立を守った。1939年、全国産業公社(Instituto Nacional de Industria)を創設した[73]。これはイタリアの産業復興公社(IRI)を真似た公営コンツェルンであった[73]。1940年6月にアメリカが1億ドルの借款を申し入れてきたが、フランコはすぐに拒否した[74]。戦時中、全国産業公社は20社を支配する軍産複合体に成長した一方で[73]、フランコの統制経済が小麦生産量を激減させた[75]。戦後1947-8年アルゼンチンから大量に買い付けて国民が命をつないだ[75]。1949年にファランヘ党が国民運動に改称した。ファシズム体制のスペインは政治的・経済的に孤立していたが、1953年9月アメリカと相互防衛条約をむすんだ[76]。このころから開発を目的とした農地整理が行われたが、再分配は行われなかったので、アンダルシアのラティフンディオは健在であった[77]。工業政策が繊維部門の過剰生産を誘導した[78]。1954年、法令で公共部門の賃金を引き上げた[78]。インフレ圧力が高まって資本が逃避した[78]。1955年スペインは国際連合に加入した。1956年に土地法(Ley del Suelo de España)を制定。1957年モロッコとの間でイフニ戦争(Ifni War)が勃発した。1958年冬までに、外貨準備が僅か1000万ドル、経常収支純赤字6000万ドルをかかえた[78]。イタリアの債権国がスペイン経済に干渉していた。1958年スペインは欧州経済協力機構・国際通貨基金・国際復興開発銀行に加盟した[79]。この同年、フランス銀行元副総裁ジャック・リュエフがスペインに招かれていた[79]。欧州経済協力機構と国際通貨基金の使節団もである[79]。彼らの審議結果は、1959年7月と8月に公布された一連の政令となり、スペイン経済の青写真となった[79]。デフレ政策とペセタ切り下げが実施された(1ドル60ペセタ)[79]。自給自足をするのかしないのか優柔不断であったフランコは、ここで一連の法律を制定し外資を誘致する姿勢を前面に押し出した。1959年の経済計画のために外国から総額4.2億ドルの資金援助が寄せられた[79]。内訳の一部を紹介しよう。欧州経済協力機構からのクレジット1億ドル[79]。国際通貨基金引き出し権7500万ドル[79]。チェース・マンハッタン(現JPモルガン・チェース)およびファースト・ナショナル・シティ両行からの商業信用7000万ドル[79]。合衆国輸出入銀行からの借款3000万ドル[79]。1959年にバスク祖国と自由(ETA)がバスク民族主義を掲げて結成された。1953-61年の間に、スペインは経済援助だけで6億ドル強の贈与と4億ドルの借款を受け、さらに軍事援助として4億3680万ドルも受け取った[78]。1962年から1968年にかけて、アメリカの援助額は大幅に減少するとともに、借款が贈与の7倍となった[78]。利子以外にも、米国製品を購入するという負担が借款にはつきまとった[78]。1964年10月29日から31日にかけては金融大臣がバルセロナで国際投資会議を主催し、欧州・南米・極東の24カ国から800人の代表を招いた[80]。目的のひとつはミューチュアル・ファンドがスペイン経済になじむかどうかを判断することであったが、その材料としてアメリカでの人気ぶりが紹介された[80]。1968年10月12日スペインは赤道ギニアの独立を認めた。フランコ時代の末期に外資の参加割合が最も大きかった産業部門は、化学・食品加工・鉄鋼・非鉄金属等であった[81]。スペイン全体が経済特区と化していた。1973年ETAがフランコの後継者と目されていたルイス・カレーロ・ブランコ首相を暗殺した。
1975年11月22日にフランコ将軍が死ぬと、その遺言により フアン・カルロス王子(アルフォンソ13世の孫)が王座に就き、王政復古がなされた。1976年スペインのエネルギー赤字は45億ドルにのぼった[82]。これは前年比で9%の増加であった[82]。オイルショックがスペイン経済に追い討ちをかけて、国際収支赤字は1975年の35億ドルから1976年の43億ドルへと悪化した[82]。アドルフォ・スアレス政権は野放図な金融緩和に走った[83]。1977年10月モンクロア協定(Pactos de la Moncloa)が調印された。フアン・カルロス国王は専制支配を継続せず、スペイン1978年憲法の制定により民主化が達成され、スペイン王国は制限君主制国家となった。1981年2月23日には軍政復帰を目論むアントニオ・テヘーロ中佐ら一部軍人によるクーデター未遂事件が発生したものの、毅然とした態度で民主主義を守ると宣言した国王に軍部の大半は忠誠を誓い、この事件は無血で鎮圧された (23-F)。民主化されたスペインは1982年に北大西洋条約機構(NATO)に加入、同年の1982年スペイン議会総選挙により、スペイン社会労働党 (PSOE) からフェリペ・ゴンサレス首相が政権に就き43年ぶりの左派政権が誕生した。1986年にはヨーロッパ共同体(現在の欧州連合)に加入。1992年にはバルセロナオリンピックを開催した。一方、国内問題も抱えており、スペインはバスク地域分離運動のETAによるテロ活動に長年悩まされている。1982年に首相に就任したゴンサレスは14年に亘る長期政権を実現していたが、1996年スペイン議会総選挙にて右派の国民党 (PP) に敗れ、ホセ・マリア・アスナールが首相に就任した。
2002年7月18日にはペレヒル島危機(英語版)が起こり、モロッコとの間で緊張が高まったが、アメリカの仲裁で戦争には至らなかった。同年9月、アスナール首相がイラク戦争を非常任理事国として支持、2003年3月のイラク戦争開戦後は有志連合の一員として、米英軍と共にイラクにスペイン軍1400人を派遣した。2004年3月11日にマドリード列車爆破テロ事件が起き、多数の死傷者を出した。選挙を3日後に控えていた右派のアスナール首相はこれを政治利用し、バスク祖国と自由 (ETA) の犯行だと発表したが、3月14日に実施された2004年スペイン議会総選挙では左派の社会労働党が勝利し、サパテロ政権が誕生した。サパテロ首相は就任後、2004年5月にイラク戦争に派遣されていたスペイン軍を撤退させた。また、後に2004年の列車爆破事件はアルカーイダの犯行[84]と CIAからの発表があると、この対応を巡って政治問題となった。2005年、欧州憲法承認のため国民投票が行われ、およそ77%が賛成して批准された。翌2006年エンデサ買収が政治問題となった[85]。サパテロ政権は2008年スペイン議会総選挙でも勝利した。
リーマン・ショックにより、スペインの経済は壊滅的な打撃を受けた。2011年スペイン議会総選挙では国民党が勝利し、マリアーノ・ラホイが首相に就任した。2012年にLIBORなどの国際金融市場で不正が次々と発覚するなかでスペイン経済危機が顕在化した。2013年2月4日、首都マドリードなど各地で抗議のプラカードを掲げた市民が与党の汚職を批判するデモを行った[86]。スペインの建設業界と与党国民党元幹部らのからむ汚職疑惑で、現金を受け取った政治家のリストにマリアーノ・ラホイ・ブレイ首相をはじめ政府・与党幹部の名前が含まれていることが暴露されていた[86]。2014年1月7日、スペインマヨルカ島の裁判所は王族のクリスティナ・デ・ボルボーン・イ・デ・グレシアに対し、税金詐欺とマネーロンダリングの容疑で出廷を命じた。6月12日、フェリペ6世は姉クリスティナが保有するパルマ・デ・マヨルカ公爵位を剥奪する予定であることを、事前に私的に公表した。2016年4月、パナマ文書でサンタンデール銀行がオフショアファンドに119の顧客をもっていたことが分かった。9月、去年と今年の2度の総選挙を行っても政権を樹立出来ないままだったが、ラホイ首相を首班とする政権樹立を下院で反対多数で否決し、またもや政権樹立に失敗。11月3日になってようやくラホイ再任が決定し新内閣が発足した。2017年2月17日、スペインの裁判所は「経営は夫に任せていた」などとした主張を認め、クリスティナに無罪判決を出した。夫イニャキ・ウルダンガリンは禁錮6年3カ月の有罪判決を受けた。10月27日カタルーニャ州が独立宣言を行うも(カタルーニャ共和国)、スペイン側はカタルーニャの自治権を剥奪し直轄統治を開始した[87]。
政体は議会君主制。1975年のフアン・カルロス1世の即位による王政復古により成立した現在の政体では、国王は存在するものの、象徴君主という位置づけであり、主権は国民に在する。国王は国家元首であり、国家の統一と永続の象徴と規定されており、国軍の名目上の最高指揮官である。国王は議会の推薦を受けて首相の指名を行うほか、首相の推薦を受けて閣僚の任命を行う。現行憲法はスペイン1978年憲法である。
国会は両院制であり、スペイン下院は定数350議席で4年ごとの直接選挙で選ばれ、スペイン上院は定数264議席で208議席が選挙によって選出され、残り56議席が自治州の推薦で選ばれる。
2019年2月現在の与党はスペイン社会労働党で、国民党と共に二大政党制を構成する。2012年頃より勢力を拡大した共和系政党であるポデモス、2015年頃より勢力を拡大したシウダダノスを併せて四大政党制とされることもある。上述のようにスペインの首相は国王が指名を行うため必ずしも議会の最多議席政党の党首が首相に就任するわけではなく、議席上は上下院ともにスペイン社会労働党はスペイン国民党よりも議席数が少ない状態になっている。その他には、スペイン共産党を中心に左翼少数政党によって構成される政党連合統一左翼や連合・進歩・民主主義などの全国政党のほかに、集中と統一 (CiU)、カタルーニャ共和主義左翼(ERC)、バスク民族主義党(EAJ-PNV)、ガリシア民族主義ブロック(BNG)、カナリア連合=カナリア民族主義党(CC–PNC)などカタルーニャやバスク、ガリシア、カナリア諸島の民族主義地域政党が存在する。
スペイン軍は陸軍、海軍、空軍、グアルディア・シビルの4つの組織から構成されている。国王は憲法によって国軍の最高指揮官であると規定されている。2001年末に徴兵制が廃止され、志願制に移行した。2007年の時点で総兵力は147,000人、予備役は319,000人である。
軍事費(防衛費)の対GDP比は日本と同程度の約1%内外[88]にとどまり、NATO諸国の中で比較しても低率な方ではあるが、イージス艦や軽空母・強襲揚陸艦、マルチロール機のユーロファイター タイフーン、レオパルト2EA6戦車など、他の主要先進国にも引けを取らない最新鋭の兵器を配備している。
旧植民地であったラテンアメリカ諸国との伝統的友好関係も非常に重要となっており、毎年スペイン・ポルトガルとラテンアメリカ諸国の間で持ち回りで開催されるイベロアメリカ首脳会議にも参加している。1986年のEC加盟以降、そこに属してスペインへ資本を輸出する国との関係が相対的に密接となっている。スペインはアフリカ大陸に位置するスペイン領のセウタとメリリャの帰属を巡り、モロッコと領土問題を抱えている。モロッコはダノンなどのフランス企業がすでに60年以上かけて事業関係を築いてきた国である。また、スペインが1801年以来実効支配しているオリベンサに対してポルトガルが返還を求めている。ポルトガルとの間には両国を統一すべきであるとのイベリスモ思想も存在する。この点、英葡永久同盟の存在と、イギリスからスペインへ投資が行われていることに注意を要する。ジブラルタル海峡はチョークポイントであり、ケーブル・アンド・ワイヤレスの海底ケーブルが敷設されている。
日西関係史としては、岩倉使節団の記録である『米欧回覧実記』(1878年(明治11年)発行)には、その当時のスペインの地理・歴史について記述した個所がある[89]。日本の鉱業法はスペインのそれをモデルとしている。
2018年1月1日付けで、外交関係樹立150周年を記念し「日本・スペイン外交樹立関係150周年推進委員会」を設立、「日本・スペイン外交樹立150周年事務局」を外務省欧州局に設置し、周年事業のための公式ロゴも用意された[90]。周年事業登録を募集するサイトも日本語とスペイン語で公開された[91]。同年10月には安倍首相がスペインを訪問。サンチェス首相と会談し、両国の関係を戦略的パートナーシップに格上げすることが合意された[92]。
スペインは、17の自治州 (comunidad autónoma) から構成される。また、自治州の下に50の県 (provincia) が存在する。
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スペインの自治州 |
また、アフリカ沿岸にも5つの領土がある。セウタとメリリャの諸都市は、都市と地域の中間的な規模の自治権を付与された都市として統治されている。チャファリナス諸島、ペニョン・デ・アルセマス島、ペニョン・デ・ベレス・デ・ラ・ゴメラは、スペインが直轄統治している。
人口の多い上位10都市は次の通り(2006年1月、スペイン統計局の2007年1月発表のデータによる)。
順位 | 都市 | 州 | 人口 |
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1 | マドリード | マドリード州 | 3,128,600 |
2 | バルセロナ | カタルーニャ州 | 1,605,602 |
3 | バレンシア | バレンシア州 | 805,304 |
4 | セビリア | アンダルシア州 | 704,414 |
5 | サラゴサ | アラゴン州 | 649,181 |
6 | マラガ | アンダルシア州 | 560,631 |
7 | ムルシア | ムルシア州 | 416,996 |
8 | ラス・パルマス・デ・グラン・カナリア | カナリア諸島自治州 | 377,056 |
9 | パルマ・デ・マヨルカ | バレアレス諸島自治州 | 375,048 |
10 | ビルバオ | バスク州 | 354,145 |
スペイン本土は高原や山地(ピレネー山脈やシエラ・ネバダ山脈)に覆われている。高地からはいくつかの主要な河川(タホ川、エブロ川、ドゥエロ川、グアディアナ川、グアダルキビール川)が流れている。沖積平野は沿岸部に見られ、最大のものはアンダルシア州のグアダルキビール川の平野である。東部の海岸にも中規模な河川(セグラ川、フカール川、トゥリア川)による平野が見られる。
南部と東部は地中海に面し、バレアレス諸島が東部の海岸沖にある。北と西は大西洋に面し、北部で面している海域はカンタブリア海(ビスケー湾)と呼ばれる。カナリア諸島はアフリカ大陸の大西洋沖にある。
スペインが接する国境の長さは、アンドラ63.7km、フランス623km、ジブラルタル1.2km、ポルトガル1,214km、モロッコ6.3kmである。[要出典]
全国的には地中海性気候に属する地域が多い。北部(バスク州からガリシア州にかけて)は西岸海洋性気候で、雨が多い。また、本土から南西に離れたカナリア諸島は亜熱帯気候に属する。農業は適地適作であり、北部は麦類、畜産物を産する。中央部では麦類、ぶどう、畜産物を産する。東部では柑橘類、コメ、南部ではオリーブ、ぶどう、野菜、コメ等の生産が盛んである。
スペインはイギリス同様、国土の大部分が本初子午線よりも西に位置しているが、標準時としてはイギリスよりも1時間早い中央ヨーロッパ時間を採用している(西経13度から18度にかけて存在するカナリア諸島は、イギリス本土と同じ西ヨーロッパ時間)。このため、西経3度42分に位置するマドリードにおける太陽の南中時刻は午後1時15分頃(冬時間)、午後2時15分頃(夏時間)となり、日の出や日の入りの時刻が大幅に遅れる(カナリア諸島についても同様)。スペインでは諸外国と比べて昼食(午後2時頃開始)や夕食(午後9時頃開始)の時刻が遅いことで有名だが、これは太陽の南中や日没に時間を合わせているためである。
IMFによると、2015年のスペインのGDPは1兆1997億ドルであり、世界第14位である。韓国やオーストラリアなどと同じかやや下回る程度の経済規模であり、EU加盟国では5位である。企業は、金融のサンタンデール銀行やビルバオ・ビスカヤ・アルヘンタリア銀行、通信関連企業のテレフォニカ、電力のイベルドローラ、ザラで知られるアパレルのインディテックスなどが大企業として挙げられる。また多額の国際観光収入を持つため観光業の比重も大きく、GDPに占める観光業の割合は国全体の10%を超えている[94]。
1960年代以来、強権的な労組の解体が進み、フランスを主体とする外資が戻ってきた。欧州経済共同体加盟により投資環境が一挙に改善された。すなわち、近世から旧態以前として障壁となっていたスペインの経済法が欧州全体のルールに取って代わられ、さらに全国産業公社(Instituto Nacional de Industria)というコンツェルンも意義を問われ解体されていった。こうしてスペイン経済は1992年バルセロナオリンピック頃まで高度成長をつづけ、「スペインの年」と一部では呼ばれた。しかしユーロダラーの供給量が増えていたせいで、1992年9月にドイツ・マルクが暴騰した。ここで欧州経済は混乱、スペインもその巻き添えとなった。翌1993年に欧州連合が発足、1999年ペソがユーロへ切替わった。21世紀に入ってもスペインは欧州連合の平均を上回る経済成長を続けているが、住宅価格の高騰と貿易赤字が問題となっている[95]。アスナール国民党政権の新自由主義的な雇用の流動化政策や土地法(Ley del Suelo de España)改正による土地開発制限の緩和、大規模な公共投資の実地、2003年改正EU電力自由化指令年内達成などによって、ドイツ・フランス・イタリアなど欧州の経済大国を上回る勢いの経済成長を達成した。市場為替相場を基とした国内総生産は2008年は世界9位でカナダを超えた(主要国首脳会議には参加していない)。
スペイン人の労働時間はEU内で第1位である。一方、平均給与はイギリスの4万ユーロに対して2万ユーロに留まっており、経済が労働者に還元されない状態になっている。したがって高騰する土地家屋の取得はスペイン国民にとって重荷になりつつあった。打開策として多くの国民は銀行と土地取得のローン契約を試みた。銀行側も国民の給与が下げ止まっているにも関わらず、土地価格上昇を見込んで安易なローン審査で次々と契約を結んでいった。先端技術をはじめとする国際産業と、そこへ向けられた外国資本が、実体経済に見合わない不動産バブルを生んでいた。それらが撤退すると、土地法改正から7年後となる2005年に、それまでの約2.5倍に高騰していた土地価格が暴落した。世界金融危機の影響で経営難に陥った銀行は融資を行わなくなった。外国人投資家もスペインから資金を引き上げ、スペイン国債を購入する投資家は激減した。雇用の多くを支えていた建設企業は、不況や公共投資の中断によって倒産が相次いだ。さもなくば労働権の後退につけこみ大規模なレイオフを実行して生き残った。解雇や倒産により失業者となった国民は、債権回収として銀行から家屋を没収された。政府による有効な手立ても無く、街中に職も家も無いホームレスが溢れ返った。
2011年1月から3月までの失業率21.29%、失業者は490万人と過去13年間で最悪の数字となっている[96]。2012年でも失業率は回復せず、さらに悪化した。2012年10月5日、スペインの月次の失業率はスペインの近代史上初めて25%を突破した(スペイン経済危機)。若年失業率は現在[いつ?]52%を超えており、先進国全体の平均の3倍以上に上っている[97]。
欧州各国の例にもれなく、スペインでも反グローバリゼーションを主張する運動が展開された。
2014年、ベーシックインカム(最低限所得保障)を政治主張に掲げる政治団体ポデモスが結党され、国民党に次ぐ2番目の党員数を集めるなど急速に支持を拡大している。
スペインの鉱業資源は19世紀からリオ・ティントなどの外国資本に思い切り採掘されてきた[98]。21世紀以降、採掘量は減少傾向にある。国際競争力が相対的に低下し、外資の投下される産業分野が多様化している。
有機鉱物資源では、世界の市場占有率の1.4%(2003年時点)を占める亜炭(1228万トン)が有力。品質の高い石炭(975万トン)、原油(32万トン)、天然ガス(22千兆ジュール)も採掘されている。主な炭鉱はアストゥリアス州とカスティーリャ・イ・レオン州にある。石炭の埋蔵量は5億トンであり、スペインで最も有力な鉱物である。
金属鉱物資源では、世界第4位(占有率9.8%)の水銀(150トン)のほか、2.1%の占有率のマグネシウム鉱(2.1万トン)の産出が目立つ。そのほか、金、銀、亜鉛、銅、鉛、わずかながら錫も対象となっている。鉱山はプレート境界に近い南部地中海岸のシエラネバダ山脈とシエラモリナ山脈に集中している。水銀はシエラモリナ山脈が伸びるカスティーリャ地方のシウダ・レアル県に分布する。アルマデン鉱山は2300年以上に亘って、スペインの水銀を支えてきた。鉄は北部バスク地方に分布し、ビルバオが著名である。しかしながらスペイン全体の埋蔵量は600万トンを下回り、枯渇が近い。
その他の鉱物資源では、世界第10位(市場占有率1.5%)のカリ塩、イオウ(同1.1%)、塩(同1.5%)を産出する。
スペインは臓器移植大国である。スペインの臓器提供者数は長年にわたり世界一である。2006年スペイン人100万人あたりの提供者数は33.8人である。第二位のアメリカ合衆国は27人で、欧州連合加盟国平均が18人であった。スペインの提供率が高い地域は順にバスク、カンタブリア、アストゥリアス、ナバラである。40-60歳代が提供者の29%を占める。男女比は62対38である。提供者の死亡原因は脳出血が最多の60%を占める。スペインは脳死を人の死として規定している。提供臓器は国内だけでなく欧州連合各国にも「輸出」されている。2006年の移植件数は3756件であった。[99]
スペインでは、本人が臓器提供拒否の意思表示をしていない以上、臓器を摘出してもよいとする「オプト・アウト方式」を採用している。この臓器移植体制はスペインで1979年に法制化された。1984年、臓器修復および臓器移植の病院が充足すべき要件が、1979年の臓器移植法に符合するよう規定された。1985年カタルーニャ州は、この分野で異なる病院の連携に責任をもつ部署を設置した。この部署は基本として国内だけでなく、スペインとEU各国との連携も担ってきた。1989年スペイン政府保健医療省が同様の機関を設けて、カタルーニャを除いた国内全域を担当させるようになった。[100]
スペインの鉄道は主にレンフェ (RENFE) によって経営されており、標準軌(狭軌)路線など一部の路線はスペイン狭軌鉄道 (FEVE) によって経営されている。一般の地上鉄道の他、高速鉄道AVEが国内各地を結んでいる。
地上路線の他にも、マドリード地下鉄をはじめ、バルセロナ地下鉄、メトロバレンシアなど、主要都市には地下鉄網が存在する。
ラテン系を中核とするスペイン人が多数を占める。一方で統一以前の地方意識が根強く、特にカタルーニャ、バスクなどの住人はスペイン人としてのアイデンティティを否定する傾向にあり、ガリシアやカナリア諸島の住民も前二者に比べると、穏健ではあるが、民族としての意識を強く抱いており、それぞれの地方で大なり小なり独立運動がある。それ以外の地方でも地域主義、民族主義の傾向が存在し、運動としては非常に弱いものの独立を主張するものまで存在する。一般に「スペイン人」もしくはその中核とされる旧カスティーリャ王国圏内の住民の間でも、イスラーム文化の浸透程度や歴史の違いなどから、アラゴン、アンダルシアの住人とその他のスペイン人とでは大きな違いがあり、それぞれの地方で、風俗、文化、習慣が大きく異なっている。
近年は、世界屈指の移民受け入れ大国となっていて、不況が深刻化した現在では大きな社会問題となっている。外国人人口は全人口の11%に当たる522万人にも上る(2000年の外国人人口は92万人であった)。
スペイン語(カスティーリャ語とも呼ばれる)がスペインの公用語であり全国で話されており、憲法にも規定されている。その他にも自治州憲章によってカタルーニャ語、バレンシア語、バスク語、ガリシア語、アラン語が地方公用語になっているほか、アストゥリアス語とアラゴン語もその該当地域の固有言語として認められている。バスク語以外は全てラテン語(俗ラテン語)に由来するロマンス語である。また、ラテンアメリカで話されているスペイン語は、1492年以降スペイン人征服者や入植者が持ち込んだものがその起源である。ラテンアメリカで話されるスペイン語とは若干の違いがあるが、相互に意思疎通は問題なく可能である。
ローマ帝国の支配以前にスペインに居住していた人々はケルト系の言語を話しており、ケルト系の遺跡が散在する。現在はケルト系の言葉は廃れている。
北スペインのフランス寄りに、バスク語を話すバスク人が暮らしている。バスク民族の文化や言葉は、スペインのみならず他のヨーロッパとも共通することがなく、バスク人の起源は不明である。このことが、バスク人がスペインからの独立を望む遠因となっている。地域の学校ではバスク語も教えられているが、スペイン語との共通点はほとんどなく、学ぶのが困難である。
現在、エスノローグはスペイン国内に以下の言語の存在を認めている。
中世末期のレコンキスタ完了以前はイスラム教が多数派を占める地域もあったが、現在ではカトリックが94%である。イベリア半島では近代に入って多様な宗教の公認とともに、隠れて暮らしていたユダヤ教徒が信仰を取り戻し始めている。戦争時など様々な折にスペインに「帰還」し、祖国のために闘ったセファルディムもいた。残りは、ムスリムなど。
なお、国民の大多数がカトリック教徒であるにもかかわらず、近年ではローマ教皇庁が反対している避妊具の使用や同性婚を解禁するなど社会的には政教分離の思想が進んでいる点も特徴である。
スペインの教育制度は初等教育が6歳から12歳までの6年制、前期中等教育が12歳から16歳までの4年制であり、以上10年間が義務教育期間となる。後期中等教育はバチジェラトと呼ばれる16歳から18歳までの2年制であり、このバチジェラト期に進路が決定する。2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は97.9%であり[101]、これはアルゼンチン (97.2%) やウルグアイ (98%)、キューバ (99.8%) と並んでスペイン語圏最高水準である。
主な高等教育機関としては、サラマンカ大学(1218年)、マドリード・コンプルテンセ大学(1293年)、バリャドリード大学(13世紀)、バルセロナ大学(1450年)、サンティアゴ・デ・コンポステーラ大学(1526年)、デウスト大学(1886年)などが挙げられる。大学は4年制ないし6年制であり、学位取得が出来ずに中退する学生の多さが問題となっている。
結婚前の姓は、一般的には「名、父方の祖父の姓、母方の祖父の姓」であるが、1999年に「名、母方の祖父の姓、父方の祖父の姓」でもよい、と法律が改正された。婚姻によって名前を変える必要はないが、女性はその他の選択肢として「de + 相手の父方の姓」を後置する、「母方の祖父の姓」を「相手の父方の姓」に置き換える、「母方の祖父の姓」を「de + 相手の父方の姓」に置き換える、などの選択が可能である[102]。
また、2005年より、同性婚が可能となった。
情熱的で明るい、気さくなスペイン人という印象が強いが、これはスペイン南部の人々の特徴で北側の人々は違った性格が強い。数百年の歴史を持つ闘牛は世界中に知られている。1991年に創設されたセルバンテス文化センターによって、世界各地にスペイン語やスペイン文化が伝達されている。
スペインでは日本と異なる時間帯に食事を摂り、一日に5回食事をすることで有名。
12世紀中盤から13世紀初頭までに書かれた『わがシッドの歌』はスペイン最古の叙事詩と呼ばれている。
スペイン文学においては、特に著名な作家として世界初の近代小説と呼ばれる『ドン・キホーテ』の著者ミゲル・デ・セルバンテスが挙げられる。
1492年から1681年までのスペイン黄金世紀の間には、スペインの政治を支配した強固にカトリック的なイデオロギーに文学も影響を受けた。この時代には修道士詩人サン・フアン・デ・ラ・クルスの神秘主義や、ホルヘ・デ・モンテマヨールの『ラ・ディアナの七つの書』(1559) に起源を持つ牧歌小説、マテオ・アレマンの『グスマン・デ・アルファラーチェ』(1599, 1602) を頂点とするピカレスク小説、『国王こそ無二の判官』(1635) のロペ・デ・ベガ、『セビーリャの色事師と色の招客』(1625) のティルソ・デ・モリーナなどの演劇が生まれた。
近代に入ると、1898年の米西戦争の敗戦をきっかけに自国の後進性を直視した「98年の世代」と呼ばれる一群の知識人が現れ、哲学者のミゲル・デ・ウナムーノやオルテガ・イ・ガセット、小説家のアンヘル・ガニベー、詩人のフアン・ラモン・ヒメネス(1956年ノーベル文学賞受賞)やアントニオ・マチャードなどが活躍した。
スペイン内戦の時代には内戦中に銃殺された詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカなどが活躍し、内戦後にフランコ独裁体制が成立すると多くの文学者が国外に亡命して創作を続けた。フランコ体制期にはラモン・センデールやカルメン・ラフォレ、フアン・ゴイティソーロ、ミゲル・デリーベスらがスペイン内外で活躍した。
民主化以後はカミーロ・ホセ・セラが1989年にノーベル文学賞を受賞している。
セルバンテスに因み、1974年にスペイン語圏の優れた作家に対して贈られるセルバンテス賞が創設された。
古代ローマ時代に活躍したストア派哲学者の小セネカはコルドバ出身だった。中世において、イスラーム勢力支配下のアル=アンダルスでは学芸が栄え、イブン・スィーナー(アウィケンナ)などによるイスラーム哲学が流入し、12世紀のコルドバではアリストテレス派のイブン・ルシュド(アウェロエス)が活躍した。その他にも中世最大のユダヤ哲学者マイモニデスもコルドバの生まれだった。コルドバにもたらされたイブン・スィーナーやイブン・ルシュドのイスラーム哲学思想は、キリスト教徒の留学生によってアラビア語からラテン語に翻訳され、彼等によってもたらされたアリストテレス哲学はスコラ学に大きな影響を与えた。
16世紀にはフランシスコ・デ・ビトリアやドミンゴ・デ・ソトらのカトリック神学者によってサラマンカ学派が形成され、17世紀オランダのフーゴー・グローティウスに先んじて国際法の基礎を築いた。17世紀から18世紀にかけては強固なカトリックイデオロギーの下、フェイホー(スペイン語版、英語版)やホベジャーノス(スペイン語版、英語版)などの例外を除いてスペインの思想界は旧態依然としたスコラ哲学に覆われた。19世紀後半に入るとドイツ観念論のクラウゼ (Krause) 哲学が影響力を持ち、フリアン・サンス・デル・リオと弟子のフランシスコ・ヒネル・デ・ロス・リオスを中心にクラウゼ哲学がスペインに受容された。
20世紀の哲学者としては、「98年の世代」のキルケゴールに影響を受けた実存主義者ミゲル・デ・ウナムーノや、同じく「98年の世代」の『大衆の反逆』(1929年)で知られるホセ・オルテガ・イ・ガセット、形而上学の再構築を目指したハビエル・スビリの名が挙げられる。
クラシック音楽においては声楽が発達しており、著名な歌手としてアルフレード・クラウス、プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラス、モンセラート・カバリェ、テレサ・ベルガンサなどの名を挙げることができる。クラシック・ギターも盛んであり、『アランフエス協奏曲』を残した作曲家のホアキン・ロドリーゴや、ギター奏者のセレドニオ・ロメロ、ペペ・ロメロ、アンヘル・ロメロ一家、マリア・エステル・グスマンなどが活躍している。
その他にも特筆されるべきピアニストとしてアリシア・デ・ラローチャとホアキン・アチュカーロの名が挙げられる。
クラシック音楽史に名を残す作曲家としては、バロック音楽ではイタリア出身でスペイン王家に仕えたドメニコ・スカルラッティ、近代音楽ではスペインの民謡や民話をモチーフとして利用したマヌエル・デ・ファリャ(特にピアノと管弦楽のための『スペインの庭の夜』、バレエ『三角帽子』、同『恋は魔術師』が有名)をはじめ、エンリケ・グラナドス、イサーク・アルベニス、現代音楽ではホセ・マヌエル・ロペス・ロペスなどがいる。
隣国フランスの作曲家もスペインをモチーフにした音楽を作曲した例は多く、ジョルジュ・ビゼーのオペラ『カルメン』をはじめ、エドゥアール・ラロの『スペイン交響曲』、エマニュエル・シャブリエの狂詩曲『スペイン』、クロード・ドビュッシーの『管弦楽のための映像(第2曲・イベリア)』、モーリス・ラヴェルの『スペイン狂詩曲』やオペラ『スペインの時計』などがある。
日本では教育楽器として親しまれているカスタネットは元々スペインの民族楽器であり、またタンブリンもイスラム文化とともにスペインに伝来した経緯があるため、フランスでは特に「バスクのタンブリン」と呼ばれる。上記のスペインやその他の国の作曲家がスペイン風情緒を強調する手段として、これらの打楽器が多用される。
北部のアラゴンから発祥したホタ、南部のアンダルシア地方のジプシー系の人々から発祥したとされるフラメンコという踊りと歌も有名である。
イスラーム支配下のアンダルスでは、イスラーム式の壁画美術が技術的に導入された。ルネサンス絵画が定着しなかったスペインでは、16世紀に入るとマニエリズムに移行し、この時期にはエル・グレコが活躍している。バロック期にはフランシスコ・リバルタやホセ・デ・リベラ、フランシスコ・デ・スルバラン、アロンソ・カーノ、ディエゴ・ベラスケス、バルトロメ・エステバン・ムリーリョ、フアン・デ・バルデス・レアルなどが活躍した。18世紀から19世紀初めにかけてはフランシスコ・デ・ゴヤが活躍した。スペイン黄金時代美術を参照
19世紀末から20世紀半ばまでにかけてはバルセロナを中心に芸術家が創作活動を続け、キュビスムやシュルレアリズムなどの分野でサンティアゴ・ルシニョール、ラモン・カザス、パブロ・ピカソ、ジョアン・ミロ、サルバドール・ダリ、ジュリ・ゴンサレス、パブロ・ガルガーリョなどが活躍した。スペイン内戦後は芸術の古典回帰が進んだ。
スペイン初の映画は1897年に製作された。1932年にはルイス・ブニュエルによって『糧なき土地』(1932) が製作されている。スペイン内戦後は映画への検閲が行われたが、1950年代にはルイス・ガルシア・ベルランガやフアン・アントニオ・バルデムらの新世代の映像作家が活躍した。
民主化以後はホセ・ルイス・ボロウやカルロス・サウラ、マリオ・カムス、ペドロ・アルモドバル、アレハンドロ・アメナバルなどの映像作家らが活躍している。
現在のスペインは世界有数の観光大国となっており、2017年の国際観光客到着数では世界2位、2017年の旅行・観光競争力レポートでは世界1位を記録した。欧州内ではイタリアを上回り、フランスに次ぐ地位にあるが、バルセロナやグラナダ等各地の著名な文化遺産を有することに加えて、コスタ・デル・ソルやカナリア諸島を中心とした避寒目的のリゾート需要が、スペインの観光業を支えている。外国人旅行者としてはイギリス人が最も多く、国際観光客到着数全体の2割超の割合を占めている。
スペイン国内には、ユネスコの世界遺産一覧に登録された文化遺産が34件、自然遺産が2件、複合遺産が1件存在する。さらにフランスにまたがって1件の複合遺産が登録されている。
日付 | 日本語表記 | スペイン語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元日 | Año Nuevo | |
移動祝祭日 | 聖金曜日 | Viernes Santo | 復活祭の2日前の金曜日 |
5月1日 | メーデー | Día del Trabajador | |
8月15日 | 聖母被昇天の日 | Asunción | |
10月12日 | エスパーニャの祝日 | Día de la Hispanidad または Fiesta Nacional de España | |
11月1日 | 諸聖人の日| | ||
12月6日 | 憲法記念日 | Día de la Constitución | |
12月8日 | 無原罪の聖母の日 | Inmaculada Concepción | |
12月25日 | クリスマス | Navidad del Señor |
スポーツにおいてスペインではサッカーが最も盛んである。スペイン代表はFIFAワールドカップに13回の出場を果たしている。1998年のフランス大会予選のときに「無敵艦隊」と呼ばれ、以後そのように呼ばれる事もある。最高成績は1950年のブラジル大会の4位を久しく上回れず、「永遠の優勝候補」などと言われてきたが、2010年の南アフリカ大会で初めて決勝に進出し、オランダ代表との延長戦の末、初めて優勝を手にした。一方欧州選手権では2012年までに3度の優勝を経験している。FIFAランキングでは2008年から2013年の6年間にかけて世界1位を記録している[103]。
また、国内のリーグ戦であるリーガ・エスパニョーラは、世界各国の有力選手が集結しイングランド(プレミアリーグ)やイタリア(セリエA)のリーグと並んで注目を集めている。その人気ぶりはスペインの2016年テレビ番組視聴者数ランキングにおいて、トップ50のうち94%にあたる47番組がサッカー関連番組だったほど[104]。特にFCバルセロナ対レアル・マドリードの対戦カードはエル・クラシコと呼ばれ、スペイン国内では視聴率50%を記録、全世界で約三億人が生放送で視聴するとも言われる。日本人ではエイバルの乾貴士が在籍している(2017年現在)。
バスケットボールもスペイン代表が2006年に世界選手権を制覇し注目を集めている。NBAで活躍する選手も2001-2002ルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞したパウ・ガソルやホセ・カルデロン、セルヒオ・ロドリゲスらがいる。
自転車ロードレースも伝統的に盛んで、ツール・ド・フランス史上初の総合5連覇を達成したミゲル・インデュラインをはじめ、フェデリコ・バーモンテス、ルイス・オカーニャ、ペドロ・デルガド、オスカル・ペレイロ、アルベルト・コンタドール、カルロス・サストレといった歴代ツール・ド・フランス総合優勝者を筆頭に(2006年、2007年、2008年、2009年と4年連続でスペイン人による総合優勝)、著名な選手を数多く輩出している。また、例年8月末から9月中旬まで開催されるブエルタ・ア・エスパーニャはツール・ド・フランスやジロ・デ・イタリアとともに、グランツール(三大ツール)と呼ばれる自転車競技の最高峰的存在である。
近年はモータースポーツも人気を博しておりサッカーに次ぐ盛況ぶりである。ロードレース世界選手権 (MotoGP) の視聴率は40%を超えることもしばしば。世界ラリー選手権ではカルロス・サインツがスペイン人初のワールドチャンピオンに輝いた。フォーミュラ1 (F1) ではフェルナンド・アロンソが2005年(当時)F1 史上最年少世界王者に輝き、スペインのスポーツ選手人気ランキングでサッカー選手のラウル・ゴンサレス(レアル・マドリード)を抑え1位になるなど、その人気は過熱している。
テニスの水準も高く近年注目度の高いラファエル・ナダルをはじめフアン・カルロス・フェレーロ、カルロス・モヤといった世界1位になったことのある選手等数多くの著名な選手を輩出し、男子の国別対抗戦であるデビスカップでも毎年好成績を収めている。
現在でも男子世界ランキングで100位以内の選手が一番多い国である。
その他にも闘牛を行う伝統が存在する。近年ではアーティスティックスイミングにおいて独特の表現力で世界的に注目を集めている。
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