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ビル・ゲイツ Bill Gates | |
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ビル・ゲイツ(2015年6月) | |
生誕 |
William Henry Gates III (1955-10-28) 1955年10月28日(63歳) アメリカ合衆国ワシントン州シアトル |
住居 | アメリカ合衆国ワシントン州メディナ |
国籍 | アメリカ合衆国 |
民族 | ドイツ系アメリカ人 |
教育 | レイクサイド校 |
出身校 | ハーバード大学 |
職業 |
実業家 慈善活動家 技術者 プログラマ 作家 教育者 |
活動期間 | 1975年 - 現在 |
純資産 | 900億ドル(2018年)[1] |
身長 | 178 cm (5 ft 10 in) |
肩書き | |
取締役会 | |
配偶者 | メリンダ・ゲイツ(1994 - ) |
子供 | 3人 |
親 | |
栄誉 |
名誉大英勲章ナイト・コマンダー 立教大学名誉博士 早稲田大学名誉博士 シルバー・バッファロー章 アメリカ国家技術賞 メアリー・ウッダード・ラスカー公益事業賞 en:Jefferson Awards for Public Service en:The Tech Awards 大統領自由勲章 |
公式サイト |
gatesnotes |
署名 | |
ウィリアム・ヘンリー・"ビル"・ゲイツ3世(William Henry "Bill" Gates III、1955年10月28日生まれ)は、アメリカ合衆国の実業家、慈善活動家、技術者、プログラマ、作家、教育者。
マイクロソフトの共同創業者兼元会長兼顧問、ビル&メリンダ・ゲイツ財団共同創業者兼共同会長。カスケード・インベストメント共同創業者兼会長、コービス共同創業者兼会長、bgC3共同創業者兼会長、マイクロソフトリサーチ共同創業者兼会長、テラパワー共同会長、ResearchGate共同創業者兼名誉理事長。
称号はイギリス女王より名誉騎士(名誉大英勲章ナイト・コマンダー)、立教大学及び早稲田大学より名誉博士を贈られている。シルバー・バッファロー章、アメリカ国家技術賞、メアリー・ウッダード・ラスカー公益事業賞、en:Jefferson Awards for Public Service、en:The Tech Awards、大統領自由勲章も贈られている。掃除機集めが趣味。
身長は178センチメートル[2]。
ゲイツは、1955年10月28日にシアトルでウィリアム・ヘンリー・ゲイツ・シニア(1925年 - )とマリー・マクスウェル・ゲイツとの間に生まれた[3][4]。ゲイツ家は裕福な家庭だったが、自分のことには一切お金を使おうとしなかった。
そして会衆派教会の日曜学校に通い、聖歌隊で歌い、ボーイスカウトにも入っていた。また、エドガー・ライス・バローズのターザン物や火星人物を読みあさる一方、フランクリン・D・ルーズベルトやナポレオン、偉大な発明家などの伝記を耽読した[5]。彼は小学校を優秀な成績で卒業した。IQは160[6]。
1967年、シアトルの私立レイクサイド中学・高校に入学した[7]。1968年秋、レイクサイド校はゼネラル・エレクトリック社のGE-635に接続されたテレタイプ端末を導入した[8]。ゲイツはこれを通じてコンピュータに興味を持つようになった。このころ、ワシントン大学の近くにコンピュータ・センター・コーポレーション(CCC)という会社が設立され[9][10]、DECのPDP-10への接続サービスを開始する予定であった。正式運用の前に負荷耐性テストを行う必要があったCCCは、1968年11月にゲイツらに夜間と週末にコンピュータを無料で使用させた[9][11]。この経験を通じてゲイツはDECのPDP-10に詳しくなった。
CCCは、1970年2月に不渡手形を出し、実質的に倒産する[12]。これにより、ゲイツはコンピュータに触れる機会を失う。1970年11月オレゴン州ポートランドにあったインフォメーション・サイエンス・インク(ISI)という会社から、COBOLでの給与計算システムの作成を請け負い、開発費の代わりとして無料でPDP-10を使う権利を手に入れた[13]。ゲイツらはCOBOLに習熟しておらず、この作成は難航した[14]。
ゲイツが高校生のとき、高校の先輩でありワシントン州立大学の学生であったポール・アレンとともに、トラフォデータという名称で[15]、交通量計測システムを作成しようとした。アレンによると、このトラフォデータは私的につけられたチーム名にすぎず[16]、法人として設立されてはいないため、トラフォデータ社とは言えない。最終的に、このビジネスはゲイツが大学生になっても続けられたが、大きな利益をあげることはできなかった[17]。
このころのゲイツに関して、以下のような逸話があるが、いずれも当事者が否定しているか、確認が取れない状況である。これらは、はじめは冗談で言われていた作り話が、徐々に尾ひれがついて大きくなったもので、事実ではないと思われる[18]。
1973年に、ゲイツはハーバード大学に入学した[19]。ハーバード大学では、応用数学を専攻したが、成績は必ずしも良くなかった[20]。1974年に2年生になると、ポーカーゲームに熱中することが多くなった[21]。このころ同じ寮に住んでいた学生に、後にゲイツの後任としてマイクロソフトのCEOになるスティーブ・バルマーがいた[22]。
1974年12月、ゲイツはアレンから、ポピュラー・エレクトロニクス誌にアルテア8800の記事が載っているのを教えられた。これを読んだゲイツとアレンはアルテア8800用にBASICインタプリタを作成することを考えた。ゲイツは、アレンの名前を騙って、アルテア8800を販売していたハードメーカーMITSに電話をかけ、実際には未だ何も作成していないBASICインタプリタについて「現在開発中であり、間もなく完成する。御社に伺ってお見せしましょうか。」と言い鎌をかけた。電話に応対したMITS社長エド・ロバーツは、「動作するBASICを最初に持ってきたものと契約する。」と答えた。これを受けて、彼らはBASICインタプリタの開発を開始した[23]。
彼らはアルテア8800の実物を持っていなかった。そこで、アレンはハーバード大学にあったPDP-10上でアルテア8800をエミュレートするプログラムを作成し、これを用いてBASICインタプリタを作成した[24]。
8週間後、ゲイツとアレンの寝食を忘れたプログラミングの結果、BASICインタプリタが完成した[25]。1975年3月、デモのため、アレンがニューメキシコのアルバカーキにあるMITSへ向かった。この際、アレンがBASICのブートローダの開発を忘れていたことに気がつき、移動中の飛行機中で完成させた。こうして作られたBASICはMITSでのデモに成功し動作した。(このときゲイツはボストンの大学寮でアレンの帰りを待っており、同席はしていない。)
1975年4月、アレンはMITSの社員となった[26]。
一方ゲイツはハーバード大学の学生のままであり、学期が終わって夏休みになるとアルバカーキにやってきてBASICインタプリタの改良を手伝った[27]。その後、9月になるとゲイツはハーバード大学に帰っていった[28]。以降、1976年の春期、1976年の秋期、のいずれもゲイツはハーバード大学におり[29][30]、大学が休みの間にアルバカーキにやって来るという状態を続けていた。1977年2月に至って(日本でいえば大学4年生の前期終了時に相当)、ゲイツはハーバード大学を休学し、以降は大学に戻ることはなかった。
このとき(1977年2月)、ゲイツとアレンの間で、パートナーシップに関する合意書がかわされた[31][32]。
BASICインタプリタ事業が開始された1975年4月をもってマイクロソフト社の創業とされることがあるが、上記のように、実際には1975年4月時点ではマイクロソフトという法人は存在せず、そもそもマイクロソフトという名称自体も存在していない。また、上述のように、BASICインタプリタ事業が始まってからも、ゲイツはその後の約2年間は、実質的にもハーバード大学の学生であり続けている。パートナーシップ形成に関してゲイツとアレンの間で合意書が交わされ、パートナーシップによる経営としてマイクロソフトが正式にスタートするのは、1977年2月である。(ただし、この時点でもパートナーシップによる経営であるので、正確には、マイクロソフト「社」ではない。)
マイクロソフトという名前自体は、1975年7月にアレンが考え出した[33]。アレンによると、その時点では、マイクロソフトという名前は、ゲイツとアレンの活動を表す私的なチーム名に過ぎなかった[33]。なお、チーム名という形にせよ、文書でマイクロソフトの名前が確認できるのは、1975年10月にMITSの社長であったエド・ロバーツが書いた記事が初出である[34]。このころはMicro-softとハイフンを含む名前であった。
1980年、IBMは、Apple IIの成功を見て、パーソナルコンピュータ市場への本格参入をはかることにし、IBM PCの開発に乗り出した。短期に開発することを目指していたため、OSについては自社開発をあきらめ、既存のOSを採用・改良することにした。当時、多くのパーソナルコンピュータのOSとして普及していたのは、ゲイリー・キルドールによって創業されたデジタルリサーチ (Digital Research) が開発したCP/Mだったが、OS採用をめぐるIBMとデジタルリサーチとの交渉は不調に終わった。
そこで、IBMはマイクロソフトにOSの開発を要請した。その際に、当時OSの開発を行なっていなかったマイクロソフトは、シアトル・コンピュータ・プロダクツ (SCP) から$75,000で[35]手に入れたCP/M互換OS、86-DOS (QDOS) をIBM PC用に改良、PC-DOSとして納入、このPC-DOSをさらにMS-DOSという名前で他のパーソナルコンピュータにもライセンスで供給することにより、現在の基礎を作った。$75,000の価格については、破格の条件でありタダ同然の価格でだまし討ちであったと言われ、後に92.5万ドルを支払っている[36]。
MS-DOSの普及に尽力する一方、GUIを導入する必要性も理解していた。1982年の秋、COMDEXでビジコープ社のVisiOnがMS-DOS上でGUIを実現するデモを見て焦りを感じたゲイツは[37]、インタフェース・マネジャーという名称で、同様の機能を持つソフトウェアを発売する予定であると発表した[38]。しかし、実際には何も開発しておらず、その後の開発も難航し、製品発売予定は守られずに何度も延期された。
実現の見通しがないままで製品発売のアナウンスを行ったことは、同時期にGUIを実現するパソコンを実際に開発中であったApple社を無用に刺激することになった。[注釈 1]
結局、紆余曲折を経たうえでWindowsという名称に変更されて最初の製品が発売されたときには1985年になっていた。この時期には、既にGUIを有するMacintoshが販売されており、機能的にWindowsはMacintoshに大きく見劣りするものであった。 Windowsが現実的に使えるシステムになるのは、1990年のWindows3.0の時である。1995年にマイクロソフト社の開発したMicrosoft Windows 95に至って、ようやくMacintoshと比肩しうるレベルに達した。
2000年1月にCEO職をバルマーに譲る。
2006年6月15日、2008年7月にゲイツは第一線から身を退き、ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団での活動を重視すると発表、CSA(Chief Software Architect、主席ソフトウェア設計者)職をレイ・オジーに移譲した。そしてその発表通り、2008年6月30日をもって会長職にはとどまるものの、フルタイムの仕事からは引退、2014年2月4日、会長職から退いて「技術担当アドバイザー」となり、後任にはジョン・トンプソンが就任した[40][41]。
2017年5月19日 自身出身のシアトルとの姉妹都市・神戸市栄誉市民の称号を獲得。ビデオメッセージを送った。
アメリカの雑誌フォーブスの世界長者番付で、1994年から2006年まで13年連続の世界一となった。2006年の個人資産は推定530億ドル(日本円で約6兆2000億円)で、2007年、ビル・ゲイツの資産は、さらに50億ドル膨らんで資産総額580億ドルとなったが、推定資産620億ドルの著名投資家のウォーレン・バフェット、推定資産600億ドルの中南米の携帯電話会社América Móvilなどを所有するメキシコの「通信王」カルロス・スリム・ヘルの後塵を拝し、ゲイツは3位に転落した。
2008年、推定資産400億ドルと世界的な金融危機で各々の総資産が減少する中、ゲイツの資産総額も前年度より180億ドル減少したが、結果的に再び第1位に返り咲いた。2014年現在の推定資産810億ドルで、世界1位である。長らくマイクロソフトの個人筆頭株主でありかつては資産の大半を同社株が占めていたが、定期的に売却を続けた影響で2014年には保有株数でスティーブ・バルマーに抜かれることとなった。
現在の同氏の資産は個人投資会社であるカスケード・インベストメント社の投資成果によるものであり、マイクロソフト株も同社を通じて保有している。同社の投資資産としてはフォーシーズンズホテル、リパブリック・サービシズ、エコラボ、カナディアン・ナショナル鉄道、バークシャー・ハサウェイなどがある。
フォーブスの世界長者番付2017で推定資産860億ドルで1年間で資産を90億ドル以上増やし、4年連続の首位に立った。過去23年間では18回首位に輝いている。[43]
テキサス州ダラス市出身のメリンダ・アン・フレンチ(旧姓)と1994年1月1日に結婚した。子供は3人いる[44]。シアトル郊外、キング郡マダイナに在住。
研究家
倹約家
その他
ビル・ゲイツが彼の妻メリンダ・ゲイツ、父親のウィリアム(ビル)・ゲイツ・シニアとともに作った慈善団体。2005年には国際団体「ワクチンと予防接種のための世界同盟」に、民間としては最大規模の7億5000万ドルの寄付を発表した。
財産管理は主にメリンダが行っており、寄付をする際の検査は、厳格に調査していると公表している。
なお、2006年6月15日の記者会見にて、2008年7月にマイクロソフトの経営とソフト開発の第一線から退き、「ビル&メリンダ・ゲイツ財団 (B&MGF)」の活動に専念すると発表した。
2006年12月1日には、夫妻の死後50年以内に財団の資産を使い切って活動を終えると発表した。同基金は「我々が取り組んでいる問題を今世紀中にめざましく進展させるため」と、存続期間を限定した理由を説明している。
同基金は、途上国のエイズ、マラリア、結核の根絶や教育、貧困、保健、介護、識字、子育て、疲労の水準の改善などに尽力しており、今後は更に寄付を拡大する方針も明らかにもしている。
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